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【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくりヒストリー 綿紡績機の発明家 リチャード・アークライト(理髪師出身で特許権を活用して大富豪になった産業革命の主役の一人である偉大な発明家)

2023.04.21

AKI

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。18世紀ころのイギリスでは、産業革命によって様々な製品が大量生産されました。綿を使った製品もそのひとつです。当時のイギリスでは綿織物は高級品であり、生産量が非常に少なかったため、価格が高騰していました。これを解決したのが、綿紡績機の発明です。綿紡績機の発明によって、綿糸の生産性が大幅に向上し、綿織物の生産量も急増しました。これによって、綿織物の価格が下がり、広く一般に普及するようになりました。この綿紡績機を発明したのが、イギリスの実業家であるリチャード・アークライトです。彼の発明は、衣類をはじめとする綿織物の製造拡大に貢献し、産業全体に大きな影響を与えました。そこで今回は、綿紡績機の発明家であるリチャード・アークライトの生涯を振り返っていきましょう。

リチャード・アークライトの前半生(理髪師として活躍しながら綿紡績機を発明)

リチャード・アークライトが生まれたのは1732年12月22日です。彼はイングランド・ランカシャーのプレストンにて、13人兄弟の末っ子として生まれました。アークライト家は仕立て屋を営んでおり、父のトーマスはギルド選出議員としても活躍していました。経営は苦しく、アークライトは小学校に通うことができませんでした。その代わりに、いとこのエレンから読み書きを教わり、教養としました。その後、アークライトはクハム近郊で床屋を営むニコルソンに弟子入りし、理髪師兼かつら職人として勤務することになります。修行を積んだあと、1750年にはボルトンにて自分の店を持ち、理髪師として活動しました。美容院を営みながら、アークライトはイギリスの各地を転々とします。頭髪の形や髪の色を求めて、染料をつくるための知見を深めるためです。この時、アークライトは様々な紡績業者と出会います。紡績業に関する情報も仕入れていたことから、後にかつら着用の流行が廃れると紡績業に転換するきっかけとなりました。

1755年、最初の妻となるペイシェンス・ホルトと結婚しました。その年のうちに長男であるリチャード・アークライト・ジュニアが生まれました。しかし喜びも束の間、1756年にペイシェンスが急逝。その後アークライトは起業し、アークライトは男手ひとつでジュニアを育てていましたが、1761年にマーガレット・ビギンスと再婚します。マーガレットとの間には3人の子どもを授かりますが、成人するまで生き延びたのはたった一人だけでした。

その後、アークライトは紡績業に興味を抱くことになります。特に生の木綿から綿糸をつくるための梳綿と紡績の機械化を考え、実現しました。1768年には時計職人であるジョン・ケイとともに、綿織物が特に活発になっていたノッティンガムに転居。ジェニー紡績機を改良して、綿糸の強度や長さなどの品質を向上させました。1769年、アークライトは水力紡績機の特許を取得します。それまでは綿織物の製造を人の手で行っていましたが、人力での製造には限界がありました。アークライトの発明した紡績機は木製または金属製のシリンダーを使うことによって糸を織り込むことを可能にし、それまでよりも早く、強度も高い糸を織ることができるようになったのです。織物の生産スピードも向上し、安価かつ良質な品物を大量に生産することに成功したのが大きな功績です。この紡績機はその後の綿織物産業において革命の始まりとなり、その後の発展の基礎を築きました。

リチャード・アークライトの後半生(綿紡績機の特許で大富豪になる)

アークライトは水力紡績機の発明だけでなく、カード機を改良したことでも知られています。カード機とは、ルイス・ポールが発明した梳綿用機械のことです。アークライトが改良したものは、収穫した綿花を梳いて繊維の揃った塊にする機械です。その塊から糸を引き出して紡績を行うことを特徴としています。アークライトと相棒であるジョン・スモーリーは、ノッティンガムで馬を動力源とする小さな工場を創業しました。事業拡大にはさらに資金が必要だったため、ジェデディア・ストラットとサミュエル・ニードという2人の実業家と組むことにしました。1771年、ついに彼らはクロムフォードに世界初の水力を使う工場を建設。熟練の職人を集めて操業を始めました。アークライトは、機械の完成までに12,000ポンドを費やし、カード機から木綿の塊を取り除くための機構も装備しました。梳綿と紡績の全工程を機械化し、スコットランドなどイギリス各地に綿糸工場を作ります。彼の紡績機はそれまでの紡績機に比べて技術的に大きく進化しており、操作にあまり訓練を必要とせず、織りの際に経糸に使えるほど糸の強度も高めることに成功しました。アークライトはこの成功を掲げて故郷であるランカシャーに戻り、新たに工場の操業を始めました。この工場は産業革命に大きな役割を果たすことになります。1774年には、工場の従業員は600人を超え、さらにその後5年間で各地に工場を増やしていきました。アークランドはスコットランドにも招かれ、そこでも綿糸産業の確立に尽力します。しかし1779年、バークエーカーの新工場は機械化に反対する暴動によって破壊されました。暴動が起きたきっかけは、アークライトが取得した特許に反対する勢力が生まれたことでした。アークライトは1775年に、非常に強力な広い権利範囲の特許を取得しました。この特許は急成長している産業における独占を可能にする包括的なものでした。しかしランカシャーでは、独占的な特許権に反対する世論が大勢を占めていたのです。1777年、ダービーシャーワークズワースのハールレム工場を借りて綿糸工場として操業。この工場は綿糸工場として初めて蒸気機関を設置しましたが、これは工場の機械を直接駆動するのではなく、水車のための貯水池に水を汲み上げるのに使われました。

アークライトの功績は広く認められ、1786年にナイトに叙勲されました。その翌年にはダービーシャーの州長官に任命されています。アークライトは自身の知的権利をライセンスにし、生涯で巨万の富を築きました。1785年時点では、アークライトの特許を使用した工場群で約3万人が雇用されるほどの一大産業となりました。工業に大きな影響を与えたアークライトは、クロムフォードで59歳で永眠しました。彼の死後も工場は稼働し、200周年に際してアークライト協会が創設されました。この教会は同工場を所有すると共に、産業革命に関する遺産の保護活動を行っています。

今回はリチャード・アークライトの生涯を振り返ってきました。彼の発明は、綿糸の需要を急増させ、綿産業を成長させることに成功しました。産業革命の発展を促進することとなり、イギリス全土の産業にも大きく貢献したことで知られています。また、アークライトの改良によって、紡績工場がより効率的に動作するようになり、労働力不足を補うために機械化が進むことになりました。アークライトは、産業界においても成功を収め、アークライト自身も経済的な利益をもたらしました。彼の発明によって、近年の産業の礎が築かれたといえるでしょう。

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