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【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくりヒストリー セメントの発明家 ジョセフ・アスプディン(近所の道路の石灰岩を掘り起こして2回起訴されたり、次男と派手な親子喧嘩をしたが、ポルトランドセメントの特許で大富豪になったお騒がせな天才発明家)

2023.04.24

AKI

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。建設業において、セメントの登場は大きな役割を担いました。このセメントを発明したのは、イギリスの発明家であるジョセフ・アスプディンです。それまでの建設現場では、石や木材などの素材を使用していました。これらの素材では強度が低く、長い間使用することが難しかったのです。セメントの登場によって、建設物の強度は高くなり、建物を長期にわたって使用できるようになりました。今でも多くの建設現場でセメントが用いられています。今回はそんな、ジョセフ・アスプディンの生涯を振り返っていきます。

ジョセフ・アスプディンの前半生(ポルトランドセメントの発明)

ジョセフ・アスプディンは、イングランド北部のヨークシャー地方、リーズという都市で誕生します。アスプディンの実家はレンガ職人を営んでおり、そこの6人兄弟の長男として生まれました。アスプディン家は敬虔なクリスチャン一家であり、ジョセフ・アスプディンは1788年のクリスマスに洗礼を受けます。父親の所属するレンガの組合に入ってレンガ職人として活躍していたアスプディンは、1811年にメアリ・フォザビーと結婚しました。

結婚から6年後の1817年、アスプディンはリーズの中心部に居住し、レンガ職人として独立を果たしました。レンガの製造を行う傍ら、セメントの製造方法についても興味をもち、日夜勉強に励んでいたそうです。1824年には人工石製造法について取りまとめ、イギリス国内で特許をとりました。この特許の中で、「ポルトランドセメント」という言葉を初めて用いたと言われています。ポルトランドセメントとは、イングランドの南西部、ドーセットにあるポートランド島で産出するポートランド石と呼ばれる石灰岩に似ていることから名付けられました。硬化した後の様子が「良質のポートランド石」に似ていることから、これをポルトランドセメントと名付けたのです。ポートランド石は当時のイギリスでは、最高の建築用石材とされていたため、人工的に作成できるこのセメントは至る場面で重宝されました。とはいえ、特許となった製品は、現在ポルトランドセメントと呼ばれているものとは明らかに異なり、素早く固まるものの強度は低いという欠点がありました。それでも、その価格の安さや加工のしやすさから、当時は漆喰の代わりや型で形成する建材として重宝されていました。のちにこのポルトランドセメントは製造業に革新をもたらす発明として、たくさんの建設業者に使用されることになります。

特許を取得した直後の1825年に、アスプディンは近所に住んでいたウィリアム・ビバリーと手を組み、ウェイクフィールドでセメント工場を創業しました。アスプディンは家族を連れ、ウェイクフィールドに移住することになります。同年、アスプディンは石灰精製法の特許を取得しました。しかしこの工場は、鉄道の建設予定地となっていたため、転居を余儀なくされてしまいます。工場の稼働自体は中止せず、近辺に第二工場を建設して、以降の製造はその工場で行いました。

ジョセフ・アスプディンの後半生(お騒がせ事件を連発しながら大富豪に)

アスプディンが発明した製品は「人工セメント」に分類され、ライバル会社であるジェームズ・パーカーのローマンセメントに対抗するために発明されました。セメントの製造方法は、一度石灰岩を焼き、それを砕いて粘土と混ぜ、再び焼くことで完成します。当時の技術では石灰岩をそのまま砕くのは難しく、一度焼いてから砕きやすくする必要がありました。

アスプディンが使った石灰岩は、その地方で産出する石炭紀後期のものです。はじめは道路の舗装に用いられていました。彼の特許に書かれた原料採取方法は、「道路上のゴミ」を集めるというもの。道路から石灰岩を集められない場合のみ、石灰岩の塊を使っていました。アスプディンは実際に近所の道路で数ブロックに渡って舗装を掘り起こしたことがあり、2回起訴されたこともあります。当時のイギリスでは鉄道が発達しておらず、物品の輸送は非常に悩ましい問題でした。アスプディンにとっても例に漏れず、石灰岩を確保することは大きな課題となっていました。石灰の入手方法を巡って、のちに息子であるウィリアムと衝突したとされています。ウィリアムはアスプディンのやり方を改良し、石灰岩をより多く使い、燃料も多く使って温度を高くするというものでした。それまでは廃棄していたクリンカーを粉砕し、石灰の入手問題を解決できるようになりました。ウィリアムはその後ケントに移り、豊富な柔らかいチョークが入手可能な場所で現代的なポルトランドセメントの製造会社を立ち上げました。

アスプディンが2つ目の工場を作ったころ、長男のジェームズがリーズで会計士として、次男のウィリアムは工場の運営者として働いていました。しかし1841年、石灰の入手方法を巡ってアスプディンがウィリアムと対立すると、ジェームズと手を組みウィリアムを追い出しました。ポートランドセメントの改良を行っていたのは主にウィリアムであり、その後の工場の運営には苦戦することになります。それでもなんとか経営は続き、1844年にジョセフが引退すると、ジェームズがそのあとを引き継ぎました。1848年には3つ目の工場を作り、1900年まで稼働しました。1855年、アスプディンはウェイクフィールドの自宅で息を引き取りました。

今回はセメントの製造者であるジョセフ・アスプディンの生涯を振り返ってきました。セメントの登場によって、多くの建設現場で強度の高い建物を作ることが可能になりました。特許を巡って息子と対立したことがあったり、石灰の採取のために近所から提訴されたりと問題もある人生でしたが、アスプディンの発明が建設業に大きく貢献したことは間違いありません。普段暮らしていて見かける建物の素材について、その起源を辿ってみると面白い発見ができるかもしれません。

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