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【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくりヒストリー 復水器+ホットエアエンジンの発明家 ジョン・エリクソン(発明品の開発費がかさみ債務者監獄に入ったことのある天才発明家)

2023.03.29

AKI

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。私たちが快適に暮らすために欠かすことができないエアコンや冷凍機にはコンデンサーと呼ばれる部品が搭載されています。これは復水器と呼ばれる機械をもとに作られた製品であり、歴史をたどれば復水器の発明が大きく影響しています。そんな復水器を発明したことで有名な人物がスウェーデン生まれのアメリカ人発明家で機械技師のジョン・エリクソン(John Ericsson)です。ジョン・エリクソンは復水器をはじめとして、ホットエアエンジンや魚雷技術などさまざまな発明を世に残してくれた人物です。そこで今回は復水器などさまざまな発明をしたアメリカ人発明家のジョン・エリクソンの生涯を振り返っていきましょう。

 

ジョン・エリクソンの生涯(ホットエアエンジンの発明とイギリスへの移住)

1803年(享和3年)7月31日、ジョン・エリクソンはスウェーデンのヴェルムランド地方で誕生しました。エリクソンの父はヴェルムランドにあった鉱山で監督をして一家を支えていました。しかし、あるとき投機に大失敗してしまい財産を失ってしまったことで、1810年(文化7年)にForsivikという場所に引っ越すことになったそうです。

移り住んだ後、父はイエータ運河(スウェーデン西部のイェーテボリからイエータ川やトロルヘッタン運河でつながりバルト海のセーデルシェーピングまで伸びる運河)の工事で発破(火薬類の爆発によって建築物や船舶などの人工物を破壊、山や岩を破砕、地質調査のために地面を振動させる行為全般を指す)の監督として働くことになりました。

また、エリクソンもその工事を手伝うこととなりました。そして同じく働いていたバルツァール・フォン・プラテン(イエータ運河の建造者)によってエリクソンとエリクソンの兄ニルス・エリクソンの2人は高く評価されました。このこともあって、2人はスウェーデン海軍の機械工の見習いとして採用され、運河事業の実習生として働くことになりました。幼いころから実習生となったこともあり、エリクソンは14歳のときには測量技師として一人前に成長したそうです。

17歳になったエリクソンは、イェムトランド地方のスウェーデン陸軍に入隊しました。そしてイェムトランド方面歩兵連隊の少尉となり、その後すぐに中尉への昇進を果たしました。

その後は測量任務に就くこととなりました。そのときに、蒸気を使わずに煤煙を推進体とした熱機関を作ることに熱中していたそうです。この頃から機械に関する興味が徐々に強くなり、既に一定程度のスキルも保持していたことから軍を辞める決意を固めました。

軍隊を離れて1826年(文政9年)にはイングランドへと移り住むことになりました。エリクソンはスウェーデン時代、カバ材と呼ばれるカバノキなどの燃料を使用してホットエアエンジンという熱機関を動かしていました。しかし、当時のイングランドでは石炭が燃料として普及していたため、エリクソンが発明していたホットエアエンジンは作動しなかったそうです。

しかしもちろん諦めることはなく蒸気を基盤とする熱機関を複数発明しました。さらに新たにファンを利用することで酸素供給量の増加を図るなど熱プロセスを改良していきました。1829年(文政12年)には、蒸気機関をジョン・ブレイスウェイトと共同開発することに成功し、当該機関を利用した蒸気機関車のノベルティ号でレインヒル・トライアル(蒸気機関車史でも初期に行われていた蒸気機関車の競争)への参加も果たしました。このとき蒸気機関車のスピードは最速でしたが、ボイラーの故障などが重なり惜しくも優勝は逃してしまいました。

エリクソンは蒸気消防車も発明しており、実際に現場で使用されるなど技術面では高く評価された発明でした。しかし、ロンドンの消防団や市当局からは一部否定的な意見が上がっていたそうです。ジョン・フランクリン(イギリスの海軍将校の北極探検家)のもとにも蒸気消防車が提供されました。しかし、フランクリンは実際の目的地をエリクソンに内緒にしていたため、特殊環境非対応の通常の蒸気機関が提供されました。案の定、蒸気機関は極寒に耐え切れず故障してしまったそうです。

 

ジョン・エリクソンの生涯(復水器の発明と度重なるその後の苦労)

エリクソンは復水器という機械も発明しており、彼の数ある発明の中での代表作としても知られています。復水器は、蒸気船が海上を航行する際に排出される蒸気を利用して淡水を生成する機械でした。復水器はその技術が高く評価され長い間使用されることとなりました。現在では一般的となったエアコンや冷凍機などには復水器の基本原理を利用したコンデンサーが利用されています。

しかし、順調と思われたエリクソンの研究者人生ですが、この頃には発明で必要となった莫大な開発費がかさみにかさんで、債務者監獄へと一時的に収監されてしまいました。

無事に戻ってくることができたエリクソンは、スクリュープロペラ2つを別の向きに設置した船の設計を開始しました。しかし、またしてもイギリス海軍本部からは否定的な声が上がっていました。ちょうどその頃、アメリカ人艦長のロバート・ストックトンから「アメリカで自由に研究をしてほしい」との誘いがあり、1839年(天保10年)、アメリカ合衆国ニューヨークに移住することとなりました。

エリクソンが開発することとなった船は当時の最先端水上戦闘艦であり、3年間かけて建造されました。スクリュープロペラ2基とエリクソンが開発した12インチ先込砲を設置する計画で進めていました。しかし、設計が進むにつれエリクソンとストックトンは衝突するようになり、エリクソンをチームから外そうと計画し始めました。ストックトンは12インチ砲塔を自分で製造して手柄を自分のものとしようとしました。しかし、ストックトンは構造を完全に理解していなかったため、製造されたものは致命的な欠陥を有していました。

そして完成した船が、当時最速と謳われていた「外輪船グレート・ウェスタン」に勝利したことで、大成功かと思われていました。しかし、ストックトンが作成した砲塔でデモンストレーションを行ったところ、案の定砲尾が破損し国務長官エイベル・アップシャーを含む8名が命を落とすという大惨事になってしまいました。この事故の後ストックトンはエリクソンに非難の声が集まるように仕向け、政治的なコネを利用して報酬も支払いませんでした。この事件以降エリクソンはアメリカ海軍を深く恨むこととなりました。

1820年代に発明していたホットエアエンジンは当初イギリスでの石炭燃料が原因で正常に作動していませんでした。しかし、のちのち蒸気機関よりも実用的だったことが明らかとなったことで、長い時を経て1862年(文久2年)のアメリカ芸術科学アカデミーにてランフォード賞を受賞しました。このホットエアエンジンは高く評価され、経済的にも大成功を収めた発明となりました。

1889年(明治22年)、数多くの発明を世に残したジョン・エリクソンは85歳でこの世を去りました。

 

今回は復水器やホットエアエンジンを発明したアメリカ人発明家の、ジョン・エリクソンの生涯を振り返ってきましたが、いかがだったでしょうか。熱機関に興味を示して軍隊を辞め研究をはじめ発明に成功しましたが、イギリスの当局や共同研究者とうまくいかず何度も苦難に立たされた人生でした。しかし、その都度しっかりと技術面で評価される発明を残してくれていた人物でした。今回は紹介できませんでしたが、復水器やホットエアエンジンのほかにも装甲艦モニターや魚雷技術、凹面鏡で太陽光を集中させ手熱機関を稼働させる装置など多くの発明を世に残してくれました。このように発明家の並外れた努力があったからこそ私たちは今快適な暮らしができています。これから先どのような発明が誕生して、どのような暮らしに変化していくのかとても楽しみですね!

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