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【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくりヒストリー 笑気ガス+液体クロロホルム+デービー灯の発明家 ハンフリー・デービー(生涯で6つの新元素を発見して電気化学という新しい学問分野を生み出した天才化学者)

2023.02.22

AKI

ハンフリー・デービー

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。特に元素のような化学物質の発見は、物づくりを格段に進化させるきっかけとなりました。そんな新元素の発見、その数々を実行して見せたのが、イギリスの化学者ハンフリー・デービーです。ハンフリー・デービーは、18世紀から19世紀にかけて活躍した人物であり、電気化学の創始者の一人として知られています。彼は、多くの科学的発見を成し遂げ、自身の研究成果や技術的発明によって、その名を世界に知らしめました。デービーは、アルカリ金属やアルカリ土類金属を多数発見したことで知られています。生涯で6つの新元素を発見した唯一の人物であるデービーは、化学の進化に大きな役割を果たしました。今回はそんな、化学の天才・ハンフリー・デービーの生涯を振り返っていきましょう。

ハンフリー・デービーの生涯(科学的素養と新元素の発見)

ハンフリー・デービーは、1778年12月17日にコーンウォールのペンザンスで生まれました。デービーは外科医のジョン・トンキンを血の繋がらない祖父としてもち、トンキンの元で暮らしていました。転校先の小学校で詩と科学を愛したデービーは、馬具工を営んでいたロバート・ダンキンから科学の初歩を教わります。ボルタ電池やライデン瓶などの実験を見て、科学により一層のめり込んでいきました。

デービーが16歳の時、父親が他界。その後、デービーはトンキンの紹介によってペンザンスで病院を営む外科医ジョン・ビンガム・ボーラスに弟子入りすることになります。病院では、デービーは薬局におかれ、化学について学びました。デービーの興味は留まることを知らず、トンキンの自宅の屋根裏で化学実験を行いました。このころ、デービーは「熱」を特殊な物質とみなしておらず、その慧眼をあらゆる場面で発揮していくことになります。その最たるエピソードが、真冬の川の氷を擦り合わせると癒着と分離が起こるという実験を行ったことでした。のちに同様の実験を王立研究所でも行い、多くの科学者の興味を惹いたとされています。

それから、科学に打ち込み続けるデービーの人生において、重要な意味を持つ2人の人物との出会いが。

1人は、王立協会フェローであるデービス・ギルバート。ギルバートとデービスは、ボーラス博士の自宅の門の前で偶然の出会いを果たします。2人は懇意になり、コーンウォールの海岸の調査旅行にいくこともありました。その旅行中に出会ったのが、2人目の人物であるトーマス・ベドーズです。ベドーズは当時、ブリストルに気体研究所を創設したばかりで、研究所を指揮する助手を探していました。そこでギルバートがデービーを推薦。トンキンはデービーがペンザンスで外科医として働くことを望んでいましたが、デービー自身がブリストルの研究所にいくことを望んでいると知ると、これを快諾しました。

気体研究所では、人工的に生成された気体を医療に応用するための実験を行いました。デービーはここで笑気ガスを発見しましたが、麻酔剤としての使用には至りませんでした。笑気ガスが麻酔として医療に使用されたのは、デービーの死後から数十年が過ぎてのことでした。この気体研究所にいる間、デービーは実験で相当な危険を冒していたとされています。一酸化窒素の吸引実験では、口の粘膜を激しく損傷する結果となり、一酸化炭素の吸引実験では、死線をさまようことになった。外気を取り入れてやっと生気を取り戻し、「私は死なない」と言ったデービーですが、回復するまで数時間を要したとされています。

ハンフリー・デービーの生涯(王立研究所への入所)

その頃、ロンドンでは王立研究所が創設され、貴族階級の人々に実験を見せて科学を普及させる取り組みが行われていました。デービーの執筆した論文は多くの科学者の目に止まるところであり、王立研究所の関係者からも注目を浴びていました。そしてデービーは王立研究所の関係者であったジョゼフ・バンクス、ベンジャミン・トンプソン、ヘンリー・キャベンディッシュらとともに面接を行いました。デービーは王立研究所にいくことになり、ギルバート宛に手紙を送りました。手紙の中には、王立研究所での仕事と電気の研究への資金提供の申し出があったこと、ベドーズの気体研究所での仕事は続けられないことを記しました。

デービーは王立研究所で、化学講演助手兼実験主任となりました。研究所内ではボルタの電気化学理論を発展させ、電気分解を利用した新たな化学反応の発見に取り組み始めました。華々しく、時に危険な実験を行い、観客はデービーの虜となりました。デービーの初公演は絶賛され、その後の講演では500人もの観客が集まったとか。また、デービーは整った顔立ちをしていたため、女性からの人気も博していました。王立研究所に入って1年が過ぎた頃、デービーは講演助手から正講演者となりました。その1年後、デービーは王立協会フェローに選ばれました。

デービーはその後も電気分解によって、新元素を発見し続けました。水を電気分解することで、水素と酸素を生成することに成功。さらに、カリウム、ナトリウム、カルシウム、マグネシウム、ストロンチウムなどの新しい金属も見つけました。生涯で6つの元素を発見した人物は、これまでの歴史上デービーただ1人です。

また、デービーは元素としての塩素を発見しました。最初に塩素を発見したのはスウェーデンの科学者カール・ヴィルヘルム・シェーレという人物でしたが、彼は塩素を酸素を含んだ物質であると誤解していました。デービーは1810年に塩素は化合物ではなく元素だと主張し、今の塩素の発見に至ったのです。さらにデービーは、気体を液体として保存するための新しい方法を開発しました。この技術を使って、液体クロロホルムを発見。彼は、化学の分野における多くの重要な発見を行い、1812年に王立協会から最高の栄誉であるコプリ・メダルを受賞しました。

デービーはのちに三塩化窒素の実験で片目の視力を失いました。これ以降、デービーはマイケル・ファラデーを助手として雇うことになります。

デービーは科学者としての素質を遺憾なく発揮した一方、その発明や研究の進歩を利用して、社会的な問題にも取り組みました。

彼の発明の中でも社会的に大きな意義を果たしたのが、彼の名を冠した「デービー灯」です。デービー灯は、当時問題視されていた炭鉱での爆発事故の防止に大きな影響を与えました。炭鉱では坑夫が使用するランプの火が、ランプ内に充満したメタンに引火して爆発する事故が多発していたのです。デービーはランプ内のメタンを外に出さないために、ランプの火を鉄製の柵で囲むというアイデアを思いつきました。火を金網で囲むというデービーのアイデアはその後の設計にもよく使われるようになりました。

1827年、健康上の問題からデービーは科学研究を引退。その後はロンドンで余生を過ごしました。彼は1829年にナイトに叙勲され、1831年には、彼の功績を称えて、王立協会からリボンを授与されました。1831年、病気のためにロンドンで亡くなり、西ミンスター寺院に埋葬されました。

デービーの功績は、科学の分野だけでなく、社会の進歩にも大きな影響を与えました。彼の発明と研究成果は、多くの科学者や技術者に影響を与え、彼の名前は、今でも科学史の中で高い評価を受けています。

今回は、さまざまな科学実験によって6つの新元素や電気の発明を行ったハンフリー・デービーの生涯を振り返ってきました。彼の行った数々の発見は、科学の発展に多大な貢献を果たしました。新たな物質を見つけたからこそ、現代のあらゆる製品が生み出されるきっかけとなったのです。彼のような科学者がいたからこそ、今私たちが豊かに暮らせているのではないでしょうか。元素の発見、そのルーツを辿ってみるのも面白いかもしれません。

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