私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。食卓に並ぶ食器にも、先人たちが築いてきた歴史が存在します。18世紀後半のイギリスでは、産業革命によって様々な産業分野が目覚しく進化しました。そんな産業革命の中、食器の大量生産を初めて行ったのが、ジョサイア・ウェッジウッドです。ウェッジウッドは彼の名を冠した「ウェッジウッド社」を創設し、世界で初めて食器の大量生産に成功しました。ウェッジウッドは「イギリス陶芸の父」とも呼ばれ、彼が作り上げた陶芸品は時代を超えても愛され続けました。その芸術は250年の時を超えて、今もなお現代の私たちに広く親しまれています。また、ウェッジウッドは奴隷解放運動の先駆けであったことでも知られています。生物の進化を説いたダーウィンを祖父にもち、芸術家一家で育ったウェッジウッド。幼い頃にかかった天然痘によって右足を失いながらも、250年に渡って愛され続ける食器陶芸を作り上げた芸術的センスを持ちながら、奴隷制度に反対する人格者でもありました。今回は、そんなジョサイア・ウェッジウッドの生涯を振り返っていきましょう。
ジョサイア・ウェッジウッドの生涯(ウェッジウッド社の創設)
ジョサイア・ウェッジウッドは1730年、イギリスのスタフォードシャー州ストーク=オン=トレントで誕生しました。ストーク=オン=トレントは陶器生産が盛んな町であり、ウェッジウッドの生家も陶芸を営んでいました。13人兄弟の末っ子として生まれ、幼いころから陶器づくりに触れてきたウェッジウッドは周囲の影響を受け、陶芸の才能を開花させていくことになります。
ウェッジウッドが9歳の折、父トーマスが逝去。家業のチャーチヤード工房の跡を継いだ兄のもとで、陶芸を学び始めます。しかし11歳のとき、天然痘が彼を襲いました。これにより、ウェッジウッドの右足は自由を失ってしまいます。陶芸家にとって、足が動かせなくなるのは致命的な障害と言っても過言ではありません。しかし、ウェッジウッドは諦めませんでした。陶器への情熱を忘れず、陶器への調査と研究に没頭しました。
それからウェッジウッドは作陶を重ね、陶芸家としてさらに修行を積んでいきます。当時のイギリスで最も偉大な陶工と称されたトーマス・ウィルドンとともに、陶磁器の事業を開始。陶芸の研究のために、熱や火による物質の化学反応も学び、陶磁器の製作に活かすなど、科学者としての素養も見せました。そしてウェッジウッドが28歳のとき、アイビーハウス工房を借り受け、晴れて独立。「ウェッジウッド社」の誕生です。創業当時、ヨーロッパでは中国の景徳鎮や日本の有田焼などの純白の陶器を模したものが盛んに生産されていました。しかし、ウェッジウッドはこれらの製法をよく思っていませんでした。そこで彼は、陶磁器製造において多くの改良を加え、新しい技術やデザインを導入しました。これがのちに、時代を超えて愛される芸術へと進化していきます。
ウェッジウッド社の創業当初は、アイビーハウスに工場を構えていました。そこでは緑色の釉薬を使用した陶器を生産し、これが大ヒット。それから3年後、ブリックハウス工場に移転し、ウェッジウッドの代表作となるエナメルを用いたクリーム色の陶器を完成させます。この「クリームカラー陶器」は、高品質でありながら大量生産することができ、新たな食器産業の先駆けとなりました。「クリームカラー陶器」はイギリス中に広まり、ついには時の女王であるシャーロット王妃の目に留まります。ウェッジウッドは王室御用達の陶工として認められ、商品名に「クィーンズウェア」という名称を使用することが許されました。
ジョサイア・ウェッジウッドの生涯(ポートランドの壺の再現)
「クイーンズ・ウェア」から2年後、ウェッジウッドを再び病魔が襲います。天然痘の影響で不自由になっていた右足の状態が悪化し、膝から下を切断する事態に。それでも、ウェッジウッドは陶器づくりをやめませんでした。この時、ウェッジウッド社は経営困難の壁に突き当たっていました。ウェッジウッド社の利益は比較的数が少ない富裕層向けの高級品に頼っていたため、赤字が続いていたのです。そこでウェッジウッドは、経営改善のために簿記を学び始めました。さらに、当時のイギリスで注目されていた蒸気機関にいち早く目をつけ、陶芸づくりに取り入れました。これにより、さらに陶器の生産スピードが上がり、良質な陶器を安く早く生産することに成功し、ウェッジウッド社の業績も改善されていきました。
この頃、ウェッジウッドは古代ギリシャやローマの遺跡や収集物に関心を向けていました。古代文明の遺跡や遺物に取り入れられていた模様を、自分が作る陶器にも取り入れられないかと考えたのです。ウェッジウッドは故郷であるストーク=オン=トレントで古くから作製されていた「エジプトの黒」という陶器を改良し、「ブラック・バサルト」という陶器を作り上げました。ウェッジウッドの「ブラック・バサルト」にかける情熱は並々ならぬものであり、「黒は純粋であり、永遠である」という言葉を残しています。「ブラック・バサルト」の完成後、ウェッジウッドは王立協会の会員入りを果たし、イギリスの歴史に名を刻むことになります。
ウェッジウッドは、窯の中の高温を測るパイロメーター(高温測定計)を発明した功績で王立協会の会員となったあと、奴隷解放運動の一環としてジャスパー・メダルを作りました。産業革命が起こっている当時のイギリスでは、黒人の奴隷は重要な労働力として扱われていました。しかしウェッジウッドは、こうした黒人の扱いに疑問を持っていました。ジャスパー・メダルには「“AM I NOT A MAN, AND A BROTHER?”(同じ人間、仲間じゃないのか?)」という文字が刻まれていました。このような活動は、その後のイギリスで行われる奴隷解放運動の先駆けとなるものでした。イギリスでの奴隷制度が改められたのは19世紀初頭ですが、その始まりにウェッジウッドの活動があったことは間違いないでしょう。
ウェッジウッドは、知的財産権について独自の見解を有しており、彼は共同研究を奨励し、今日の「オープン・イノベーション」と呼ばれるものの支持者でした。ウェッジウッドがクイーンズウエアを作る技術を発見した時、彼はこの重要な発見に関する特許を取得しようとしませんでした。ウェッジウッドはこのように語っています。「特許は、大幅にその公益を制限することになります。代わりにクイーンズウエアを100の製造業者がそれを持つことになれば、世界の各方面に輸出され、いくつかのものはイギリス嗜好の人々の楽しみを生むことにとになるでしょう。」
1771年、工房をブリックハウスからエトルリアへと移し、ウェッジウッド社はますます発展していきます。ウェッジウッドは古代文明の模様への研究をますます深めていき、「ジャスパー・ウェア」と呼ばれる陶器を完成させました。このジャスパー・ウェアは、ウェッジウッド社の代表的な作品で、現代でも高い人気を誇る陶器としても有名です。そのジャスパー・ウェアの最高傑作と呼ばれるものが、「ポートランドの壺」と呼ばれる古代ローマ作品のレプリカです。レプリカとはいえ、その緻密な造形は本物に迫るものがあり、オリジナルの「ポートランドの壺」が破損した時にはウェッジウッドが作ったレプリカを元に再現されたという逸話があるほどです。ウェッジウッドは知り合いから「ポートランドの壺」の素晴らしさを聞かされ、自身も作品の持つ魅力に囚われていきます。本物の「ポートランドの壺」を1年間借り受け、その後数年の歳月を経て作られたウェッジウッド製の「ポートランドの壺」。二つの作品は現在、大英博物館の同室に並べられています。
「ポートランドの壺」の再現から5年後、ウェッジウッドは64歳でこの世を去りました。彼の64年間が世界に与えた影響はとてつもなく大きく、現代でも偉人として語り継がれています。陶芸家・芸術家としてだけでなく、事業を成功させる商才や奴隷解放運動に積極的に取り組む社会性など、魅力的な人物だったことが、彼を有名たらしめたのではないでしょうか。
今回は、イギリスの伝統的食器ブランド「ウェッジウッド」の創設者であるジョサイア・ウェッジウッドの生涯を振り返ってきました。陶芸にかける情熱で彼を凌ぐものはいないほどであり、幼い頃にかかった病気で片足を失っても愛する陶芸に心血を注ぎました。「ポートランドの壺」に代表される彼の精巧な芸術品は、時を超えて現代でも多くの人に親しまれています。また、イギリスにおける奴隷解放運動の先駆けとなるなど、社会的に大きな意義を持つ行動を起こした人物でもありました。食器一つとっても、その歴史は非常に深いもの。私たちが普段何気なく使っている道具の歴史を調べてみるのも、新しい発見があって面白いかもしれません。