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【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくりヒストリー 綿繰り機+フライス盤の発明家 イーライ・ホイットニー(特許侵害訴訟の裁判費用が嵩んだために、綿繰り機の事業を廃業してしまった天才発明家)

2023.02.09

AKI

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。現在先進国と呼ばれている欧米諸国の一部や日本などの国々は、産業革命を経て国が急成長した過去があります。18世紀半ばから19世紀にかけて、産業の変革と石炭を利用するエネルギー革命が起こり、それらに伴って大きく社会構造が変化しました。そんな産業革命の鍵となった画期的な製品が綿繰り機です。綿繰り機は種子から綿繊維を素早く分離することが出来る機械でした。綿繰り機が誕生したことによって、南北戦争以前のアメリカ合衆国では南部地域が大きく発展しました。そんな綿繰り機を発明したことで有名なのが、アメリカ人発明家のイーライ・ホイットニー(Eli Whitney)です。綿繰り機以外にも切削加工を行う工作機械であるフライス盤を発明したことでも有名です。そこで今回は、アメリカの産業革命の鍵となった綿繰り機や、フライス盤を発明したアメリカ人発明家のイーライ・ホイットニーの生涯を振り返っていきましょう。

 

イーライ・ホイットニーの生涯(幼少期から綿繰り機発明まで)

イーライ・ホイットニーは1765年(明和2年)12月8日、アメリカ合衆国マサチューセッツ州のウェストボローという街で誕生しました。ホイットニーの父親イーライ・ホイットニー・シニアは裕福な農場主でした。母親のエリザベス・フェイは、ホイットニーが11歳のころに若くして亡くなりました。

また、1775年(安永4年)には、イギリス本国からの独立を果たすべく北米東海岸のイギリス領13植民地との独立戦争がはじまりました。戦時中のホイットニーが14歳のときには、父の農場の作業場で釘を製造し収益を得るようになりました。

その後、ホイットニーは大学への進学を考えるようになりましたが、継母が大学進学を反対したことでそのときには大学進学を諦め、農場での労働や教師をして貯金するようになりました。しかし、大学進学をどうしても夢見ていたホイットニーはイエール大学進学の準備として、レスターアカデミー(現在のベッカー・カレッジ)に入ることになり、1789年(天明9年)には無事にイエール大学への入学を果たしました。1792年(寛政4年)には大学を卒業し、その後も法律を学びたかったそうですが、金銭的な問題によりサウスカロライナ州に行くこととなりました。

船でサウスカロライナ州へ向かう途中、ホイットニーはナサニエル・グリーン(アメリカ独立戦争の大将軍の少将)の未亡人一行と出会いました。このとき、ホイットニーはジョージア州にあるプランテーションMulberry Groveに招待され、ここで急遽ジョージア州に行き先を変更したそうです。

プランテーションに到着して、ホイットニーは初めて木綿栽培を目にしました。これがきっかけとなり、綿花の種取り作業に大きな関心を持つようになります。当時のプランテーションで行われていた綿花の種取り作業は非常に重労働でした。この作業を何とかできないか考えていたとき、猫が金網越しにニワトリにちょっかいをかけている姿をたまたま目にしました。このとき猫がちょっかいをかけても数枚の羽根しか取れていない状況を見て、なんとアイデアがひらめいたそうです。

そして、翌年1793年(寛政5年)ホイットニーは、綿花の種取り作業が簡単になる製品である綿繰り機を発明しました。ホイットニーが発明した綿繰り機は、フックがつけられた木製ドラムを回転させることで、金網越しに木綿の繊維のみをドラムが巻き取る仕組みでした。この綿繰り機は1台で1日当たり25キログラムもの木綿の種を取り除くことができ、作業効率はなんと当初の50倍にもなったそうです。綿繰り機はエンジンから名がつけられ、“cotton gin” と呼ばれるようになりました。綿繰り機の発明によりアメリカ合衆国南部の経済は大きく成長していきました。1793年(寛政5年)には230トンだったアメリカの木綿輸出量は1810年(文化7年)には4万2,000トンにまで急成長しました。

発明の翌年には、綿繰り機は高く評価され特許を取得しました。当初、ホイットニーらは綿繰り機の発明により収益を得るという考えはなかったそうですが、あまりにも製品の性能が高かったにもかかわらずメカニズムは単純だったことで、綿繰り機の模倣品が誕生するようになってしまいました。

ホイットニーらは急いで綿繰り機の製造を開始しました。しかし、世間の需要に応えられるほどの生産能力がないこともあり、模倣品製造業者が着々と売り上げを伸ばしていきました。もちろん、特許侵害として数々の業者を訴えたそうですが、高額な裁判費用に大打撃を受けてしまい利益を上げられず、1797年(寛政9年)に廃業に追い込まれてしまいました。

さらに一部の専門家からは、この綿繰り機の発明こそがアフリカ系民族の奴隷制度の再定着に拍車をかけたとの声も上がっています。綿繰り機が誕生する以前から奴隷制度はありましたが、発明直前には奴隷制度が衰退の傾向にあり、多くの奴隷が解放され始めていた状態でした。しかし、綿繰り機が誕生したことでアメリカ合衆国南部のプランテーションでは奴隷制度が息を吹き返し、南北戦争時には奴隷制度が最高潮に達してしまいました。

 

イーライ・ホイットニーの生涯(フライス盤の発明と晩年)

また、ホイットニーはマスケット銃の製造に関しても長年関心を持っていました。互換性部品に関しても研究を続けていましたが、これに関しては何か大きな発明を残すことは出来ませんでした。

ホイットニーは1818年(文化15年)、銃器生産のために横フライス盤の発明に成功しました。これはフライスと呼ばれる切削工具を回転させてフライスを動かすことで、平面・溝・歯車など切削加工を行う機械でした。

これとほぼ同時期の1814年(文化11年)から1818年(文化15年)には他の発明家たちもフライス盤を発明しており、他の研究者による技術革新が重要だという声もあります。現在では誰か1人がフライス盤の発明家だとは決められていないようです。

59歳になったホイットニーは前立腺がんを患っており、発病してからは身体の痛みを和らげる器具を複数発明していました。これらの器具は実際に痛み緩和の効果があったと言われています。器具の詳細を記した文書や図面は残っていますが、前立腺癌ということもあり、「下品な器具」とされ製造に至ることはありませんでした。

1825年(文政8年)1月8日、アメリカ合衆国のコネチカット州のニューヘイブンで前立腺癌の悪化によりこの世を去りました。

 

今回はアメリカ合衆国における産業革命の鍵となったと言われている綿繰り機を発明したことで有名なアメリカ人発明家のイーライ・ホイットニーの生涯を振り返ってきましたが、いかがだったでしょうか。彼は猫とニワトリのやり取りから綿繰り機を思い付き、発明に成功しました。非常に性能が高く種取りの効率が大きく向上しましたが、模倣品が続出するなどして、廃業にまで追い込まれてしまいました。また、アフリカ系民族に対する奴隷制度を活性化させてしまった発明という声が上がってしまいました。複雑な時代背景があるため一概に輝かしい功績ということは難しいかもしれません。しかし、アメリカの産業革命をはじめとして、経済発展に大きく影響を与えたこと自体に変わりはありません。そのほかにも発明を世に残し、痛み苦しみながら最期まで発明をしていた人物でした。彼の発明が私たちの身近な場面で目にすることは少ないかと思いますが、私たちの生活を豊かにしてくれたことに間違いはありません。今後どのような発明が誕生してどのような世の中になるのかとても楽しみですね!

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