【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくりヒストリー アメリカ合衆国初の蒸気機関車「トム・サム」の発明家 ピーター・クーパー(クーパー・ユニオン大学の創設者))
2023.02.03
AKI
私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。現在では航空機や鉄道、トラックなどさまざまな輸送手段があるため、遠い場所であってもモノやヒトを輸送することは簡単になりました。19世紀初期のアメリカでは一般輸送用の鉄道がありませんでした。鉄道会社自体はありましたが、起伏があり曲がりくねった場所を横断する技術の開発に苦労していたころでした。そんな時にイギリスに次いでアメリカ合衆国で初の一般輸送用の鉄道として蒸気機関車の設計・制作に成功した人物が、アメリカ人実業家・発明家のピーター・クーパー(Peter Cooper)でした。ピーター・クーパーはアメリカ合衆国初の蒸気機関車「トム・サム」の運用を開始させました。さらに、彼は政治家としても活躍しアメリカ合衆国大統領の候補者ともなった実績があります。発明家だけではなく、実業家・慈善家としてさまざまな場面で活躍し、アメリカ合衆国を世界のリーディングカントリーへと発展させた人物です。そこで今回は、アメリカ合衆国初の蒸気機関車を発明したアメリカ人発明家のピーター・クーパーの生涯を振り返っていきましょう。
ピーター・クーパーの生涯(米国初の蒸気機関車「トム・サム」の発明まで)
1791年(寛政3年)2月12日、ピーター・クーパーはアメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨークにて誕生しました。クーパーの家族は、オランダ人、イングランド人、ユグノー(フランスにおける改革派教会(カルヴァン主義)またはカルヴァン派を指す。)などを先祖に持つ家系でした。クーパーの父はニューヨーク州のニューバーグ出身で帽子職人として生計を立てていました。
若いころのクーパーは、馬車用の車両職人の家での住み込みで労働、家具職人、帽子職人、ビール醸造業者、雑貨店員として働くなど今でいう「何でも屋」のような働き方をしていたそうです。その頃からクーパーは発明に興味がありました。布を切断する機械やエンドレスの鎖(デヴィット・クリントンが承認して建設されたエリー運河で船をけん引するために使用する製品)などを創りあげました。これらは開発後に販売を試みましたが、結局売ることは出来ずに終わってしまいました。
1821年(文政4年)、と畜場(牛、豚、馬などの家畜を殺し解体して食肉用に加工する施設を指す)から生の材料調達が可能だったマンハッタン地区のキップス湾サンフィッシュポンドに面する場所に、糊の製造工場を2,000 USDで購入して建設しました。クーパーはその製造工場において、糊に加えてセメント、ゼラチン、アイシングラスなどの製造方法も開発してビジネスは順調に拡大していきました。工場設立から2年間でなんと1万 USDもの利益を生み出すほどの成功を収めました。この頃には、町では皮革のなめし、塗料の製造、衣類の販売においてトップの業者にまでのぼりつめていました。
1826年(文政9年)に、アメリカ合衆国最古の鉄道であるボルチモア・アンド・オハイオ鉄道(B&O)が開通しました。東海岸のメリーランド州ボルチモアの港から、ウェストバージニア州ホイーリングにあるオハイオ川の港にかけて路線が建設されました。
クーパーは、「ボルチモア・アンド・オハイオ鉄道の開業によってメリーランド州の地価が上昇する」と説得され、開業から2年後の1828年(文政11年)に工場の利益で約12平方キロメートルの土地を購入することを決めました。土地の購入後には、湿地の排水、丘をならすなどして土地の開発を進めました。土地の開発を行っている途中、鉄鉱石が含まれていることを発見しました。クーパーは鉄鉱石を利用して、鉄のレールの生産も開始しました。併せて、ボルチモア・アンド・オハイオ鉄道がレールを購入してくることを見越し、ボルチモアにレールを生産するためのキャントン製鉄所まで設立しました。
クーパーの数ある功績の中で有名なアメリカ合衆国初の蒸気機関車はこのキャントン製鉄所で誕生しました。ちょうどこの当時、急な起伏や曲がりくねった道の開発に対して鉄道会社は技術的な問題に直面していました。それを知ったクーパーは、マスケット銃(銃身にライフリングが施されていない先込め式の滑腔式歩兵銃を指す)の銃身や、かつてニューヨークで扱った経験があった小規模な蒸気機関などの中古部品を組み合わせて蒸気機関車を発明しました。この蒸気機関車こそがアメリカ合衆国で初の蒸気機関車「トム・サム」でした。トム・サムでボルチモア・アンド・オハイオ鉄道は大きくビジネスを成功させ、クーパーはさらに大きな利益を獲得しました。
その後もクーパーは鉄の工場を設立し、従業員数2,000人を雇う巨大複合工場へと発展させ、ここでも大きな利益を生みました。
ピーター・クーパーの生涯(政治と教育の分野での活躍)
1840年(天保11年)には、ニューヨークの市議会議員となりました。クーパーは奴隷制度廃止運動(奴隷制度と世界的な奴隷貿易の廃止を訴えた運動)に熱心に取り組み、キリスト教の教えを適用して社会問題を解決しようと尽力しました。
さらに、クーパーはインディアン改革運動にも参加し、個人的に準備した資金を使って合衆国インディアン委員会を設立しました。ここにはヘンリー・ビーチャー(アメリカ合衆国の会衆派教会牧師であり社会改革者でもあった人物)なども参加し、アメリカ合衆国でのインディアンの保護と地位向上、さらに西部での紛争を防ぐことを目的として活動しました。1870年(明治3年)からの5年間は、ワシントンD.C.やニューヨークなどのアメリカ東部の年を中心に、インディアンが代表者を派遣する費用を補助する取り組みもしました。
このような政治活動の傍ら、パブリックスクール協会の会長も務めるなど、クーパーは教育に関して熱心な人物でもありました。パリにあったエコール・ポリテクニークを参考にして無料の学校を建設しようと決め、1848年(弘化5年)にはニューヨークに夜間学校を開きました。
1853年(嘉永6年)、私立大学の科学技術発展のためのクーパー・ユニオンを設立すべくニューヨークで工事が開始され、60万 USDをかけ6年後に完成しました。クーパー・ユニオンは男女関係なく平等に学べる夜間クラスが導入されました。講義は無宗教であり、男女平等に扱われる環境でしたが、男性が全生徒の95%を占めていたそうです。また、女性用の美術学校も開講させ、版画、石版刷り、陶器の絵付け、素描などの講義が開かれていました。
これらの教育機関は重要な施設として機能するようになりました。現在ではクーパー・ユニオンは建築・工学・芸術など幅広い分野において、アメリカ国内でも有名な大学として知られる存在です。
1876年(明治9年)には、アメリカ合衆国大統領選挙にグリーンバック党から出馬しました。実は当選の見込みがないことはわかっていたそうでしたが、出馬を強く勧められ出馬したそうです。当時85歳となっていたクーパーは、政党が大統領選挙に指名した人物として史上最高齢となっています。結果は、共和党のラザフォード・ベイズが勝利し大統領となりました。
1883年(明治16年)4月4日、ピーター・クーパーは92歳でこの世を去りました。
今回は、アメリカ合衆国初の蒸気機関車を発明したことで有名なアメリカの実業家で発明家のピーター・クーパーの生涯を振り返ってきました。先見の明が優れており、蒸気機関車を発明して開発段階のボルチモア・アンド・オハイオ鉄道から大きく利益を獲得しました。さらに、蒸気機関車の発明以外にもさまざまな分野において貢献してくれた人物でした。アメリカ国内の教育改革や、奴隷制度撤廃やインディアン保護に関する政治運動などで今のアメリカを作り上げてくれた人物と言っても過言ではないでしょう。現在私たちが豊かに生活出来ているのは、過去の発明家や政治家、実業家がいたからです。このような歴史を知ることで、さまざまな物事への見方が変わってくるのではないでしょうか。