【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくり®ヒストリー 電信機器の発明家 沖牙太郎(明工舎(現在の沖電気工業株式会社(OKI))の創業者)
2025.11.28

AKI
私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。電話は、日常生活に欠かせない道具の1つです。遠くにいる人とも気軽に連絡が取れるのは現代では見慣れた光景ですが、電話が普及する前は書き置きや手紙、掲示板などで連絡を取りあう必要があり、うまく情報を伝えられないことも少なくありませんでした。日本で初めて電話が発売されたのは1881年のことです。電信機器の製造販売を行うために設立された「明工舎」が第一号となる電話を発売しました。明工舎を立ち上げ、日本における電話の普及に一役買ったのが実業家の沖牙太郎です。明工舎は現在「沖電気工業株式会社(OKI)」となり、数多くの電子機器を生み出しています。今回はそんな沖牙太郎の生涯を振り返っていきましょう。
沖牙太郎の前半生(農家に生まれるも、家業を嫌がって職人になるが、明治維新で職を失い上京する)
沖牙太郎は1848年、安芸国沼田郡新庄村(現広島市西区新庄)で生まれました。沖家は代々続く農家で、牙太郎は6人きょうだいの末っ子でした。幼少期から負けず嫌いで、相撲をとった時には相手の肩先に食いついたら二度と離さなかったという逸話も残っています。
牙太郎は家業を継ぐことを嫌がり、「大工になる」と家族に向かって宣言しました。手先が器用だったこともあり、両親は牙太郎を植木職人吉崎家に養子として送り出します。牙太郎は吉崎家で銀細工師の修行を始め、日本刀の装飾を作る技術の習得に夢中になりました。
時は明治、従来の身分制度が廃止され、武士階級にある人は「士族」という身分に再編されました。それに伴い、警察や軍人など特定の職業に就いている人にのみ帯刀を許可する「廃刀令」が実施され、日本刀の需要は減っていきました。銀細工師としての収入も少なくなり、生計を立てられなくなった牙太郎は吉崎家を飛び出して単身、上京することに決めました。安芸から汽車で横浜までいき、別の汽車に乗り換えて新橋に辿り着いた際、牙太郎は「茫然自失で夢境をさまよう心地」だったとその心境を述べています。
なんの頼りもなく飛び出してきた牙太郎は、まず暮らすための家を探さなくてはなりませんでした。縁もゆかりもない都会で、牙太郎は同郷の先輩であり、工部省電信寮の修技科長だった原田隆造を訪ねました。事情を聞いた原田は快く牙太郎を迎え入れ、牙太郎は原田の屋敷に書生として住み込み、電信寮に通う生活が始まりました。そこで牙太郎は、電信機の製作に心を奪われます。元々の手先の器用さとものづくりへの興味もあり、彼の働きぶりは製作所の人々にも認められるところとなりました。
沖牙太郎の後半生(電信寮に採用されて技工となり、グラハム・ベルが発明した電話の国産化に成功して、明工舎を創業する)
1874年、牙太郎は工部省に雇われることになり、その後正式に電信寮の雑役に採用されました。銀細工師の修行で鍛えた技術を駆使して採用試験に望み、提出した銀のかんざしの造形と彼自身の人柄を認められ、製作所の正式な一員として認められるようになります。
製作所ではスイスで時計職人をしていたルイス・シェーファーから指導を受け、旋盤の技術を身につけます。真面目に仕事に取り組む牙太郎は着実に技術を高めていき、やがて「技工」という地位に昇進しました。
その頃、アメリカのグラハム・ベルが電話を発明し、その衝撃は世界中に伝わりました。日本にも電話が輸入されると、牙太郎はじめ製作所では電話機を模造する事業を始めました。牙太郎は製作所の中で仲間を集め、「ヤルキ社」と名付けたグループを結成します。ヤルキ社は電話機の作り方を研究し、部品の国産化を目的として結成されました。
研究が進む中、牙太郎は紙製ダニエル電池と漆塗り線を発明し、輸入に頼らずとも国内で電話機を生産できる体制を作りました。この功績が工部省から表彰され、牙太郎は独立して事業を立ち上げることを考え始めます。
1879年、初代電信頭であった石丸安世に頭を下げ、彼の屋敷の中の長屋を借りて電信局の下請け工場を始めました。この工場を足がかりに、1881年、ついに牙太郎は京橋に日本初の通信機器メーカーである「明工舎」を創業しました。創業から2ヶ月後、会社にとって初の製品であり、日本国内でも第1号となる国産の電話機「顕微音機」の販売が開始されました。「顕微音機」は明治天皇の耳にも入ることとなり、12階建ての建物を使って地上と屋上で音声通話をするデモンストレーションを執り行いました。電話を通して懐中時計の針の音が鮮明に聞こえ、観衆に電話への興味を持たせることに成功したのです。
開業当初は松方財政による不況の影響を受け、経営は芳しくありませんでした。牙太郎は軍を相手に商売をはじめ、携帯印字機や電池などを陸軍省に納入しました。これらの物品が軍からの高評価を獲得したことに加え、列強入りを目指すために軍備を拡張していく必要があったことから、軍は明工舎への受注を増やしていきました。
1889年、明工舎は「沖電機工場」と名前を変え、さらなる事業拡大を進めていきました。当時の政府が発表した「第1次電話拡張7カ年計画」は飛躍的に事業を成長させる絶好のチャンスであり、牙太郎はこれまでの経験と会社の資本を惜しみなく注ぎ込んで大工場を設立します。軍からの受注と市場人気の高まりを受けて会社は破竹の勢いで躍進していき、国内の電気通信メーカー最大手の地位を確立しました。
「沖電機工場」の目覚ましい活躍は他国の同業メーカーにも知れ渡り、世界最大手のアメリカ「ウェスタン・エレクトリック社」からは資本提携の話が舞い込んできました。一見悪くないように思える提案ですが、牙太郎は「企業は社会の公器であり、国家に忠誠を尽くすもの」という信念があり、さらに自らの技術への絶対的な自信から提携を断りました。
1899年には「合名会社沖商会」を設立。翌年には「匿名組合沖商会」に改組して、社内の功労者たちに経営の権限を譲渡しました。牙太郎は病を抱えており、体調不良によって現場を離れることを表向きの理由としていましたが、今後会社の成長に伴って内部で思想の違う人間同士が現れた時に分裂しないようにするためという狙いもありました。
1904年に勃発した日露戦争では沖の電話機が前線で使用され、情報の優位性を保ったことで日本は大国ロシアに奇跡的な勝利を収めました。日露戦争から2年が経ち、牙太郎は病状の悪化により59歳で逝去しました。牙太郎は「国運発展の大勢に乗じて、自己の運命を開拓せん」という志を抱えて会社を立ち上げ、今もなおその精神は受け継がれています。
今回は日本で初めて電話の生産に成功し、普及にも貢献した沖牙太郎の生涯を振り返りました。生家を飛び出して職人の道を選び、時代の流れによって苦境に立たされながらも自らの手で道を切り開いてきた牙太郎の人生は堂々たるものでした。普段何気なく使っている電話ですが、普及のために人生をかけて走り回った人がいることを忘れてはいけません。



