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【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくり®ヒストリー 段ボールの発明家 井上貞治郎(段ボール製造の老舗企業であるレンゴーの創業者)

じっくりヒストリー IP HACK

2025.10.27

AKI

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。段ボールは、荷物を遠方に運ぶ際に使用する梱包材です。外部の衝撃から荷物を守ったり、商品の仕分けを効率化したりといった役割を持っています。日本で初めて段ボールが作られたのは、1900年ごろのこと。井上貞治郎という人物が、放浪の生活を経て段ボールの製造を閃きました。やがて段ボール製造は事業となり、彼は「レンゴー」という会社を立ち上げました。レンゴーは現在も続く老舗企業となり、段ボール製造を始めとした製紙業でトップを走り続けています。今回はそんな井上貞治郎の生涯を振り返っていきましょう。

井上貞治郎の前半生(進学が認められずに丁稚に出されるが、丁稚が嫌で色々な職を転々とする)

井上貞治郎は1881年、兵庫県姫路市で農家の三男として生まれました。高等小学校に通い、卒業後に神戸の商家で丁稚を始めました。井上自身は進学を考えていましたが、彼を奉公に出すことにしたのは父親の意向でした。自分の意に反して丁稚として暮らさなければならないことに最初こそ怒りを覚えたものの、実際に働き始める段階になると、彼は「絶対に成り上がってやる」という腹づもりになっていました。

最初に奉公に行ったのは兵庫でも名の知れた資産家である川西家で、井上は商売をするつもりで訪れましたが、実際に任された仕事は2人の子どものお守りというものでした。自分がやりたい仕事ができないことに苦痛を覚え、井上はすぐに違う仕事を探し始めます。

それからというもの、中華料理店やパン屋、石炭屋など、さまざまな職を転々として流浪の人生を送ります。住居も神戸を出て横浜や大阪、京都などで暮らし、30回以上も転職しました。

1905年、井上は飛躍の場所を求めて満州へ行くことにしました。商売で一旗揚げて、成功を手にした上で日本に戻って来る計画でした。最初は満州、その後は上海や香港と拠点を映しながら活動していくものの、とうとう結果を出すことはできませんでした。1909年に日本に戻った井上は、一念発起して独立自営を目指すことを決意。4月12日、この日がのちに設立されたレンゴーの創設記念日に定められます。

井上貞治郎の後半生(段ボールを発明して大成功するが、関東大震災で壊滅的な被害を受けて大阪に拠点を移す)

再生を誓った井上は、上野御徒町で紙箱道具・大工道具の業者を始めました。幅広く道具を仕入れて商売をしていくと、紙にしわを作るための道具が目につきました。その紙は、ガラスやビンなどの贈り物の包装に使われるものです。当時はそうした紙を製造している会社はなく、ブリキ屋や焼き芋屋などがあまり紙などを使って小遣い稼ぎ程度の副業にしていました。ドイツではきちんとした包装紙が流通していることが知られていたものの、海外製の紙は高価だったため庶民には手がだせないという現状がありました。井上はここに商機を見出します。

そんな折、井上は大連で知り合った知人と会う機会があり、出資者を紹介してもらえることに。200円ほどの資金を受け取ると、その資金で製造機を作り、段をつけたロール紙の製造事業を起こし、事務所は「三盛舎」と名付けました。

段ボールの製造は一筋縄ではいかず、納得する品質のものを完成させるまでには時間がかかりました。2ヶ月の試行錯誤の末、ようやく完成した製品を「段ボール」と名付けて販売を開始。段ボールの存在が認知されるようになるまでの時間もかかりましたが、少しずつ緩衝材として使われるようになっていきました。しかしそんな状況のために経営は芳しくなく、出資者が次々に離れていってしまいます。

その年の暮れ、井上は「独立自営」の理念を思い出しました。他の人に頼らず、自らの手で事業を開いていくことを決意したのです。事務所を京橋に移転し、名前も「三成社」と改めてさらなる飛躍を誓いました。

井上は朝も夜も身を粉にして働き、地道な努力のおかげで段ボールの注文は増えていきました。そのうちに製造が間に合わなくなったため、高額なドイツ製の製造機を購入してみると、製品の品質が向上し大手メーカーからも注目され始めました。

会社の設立から5年後、段ボール箱の製造が始まりました。井上はドイツ製の紙箱製造機を購入して量産体制を構築し、生産供給に間に合うように設備を整えていきました。工場の数も増やし、大阪に子会社を2社、名古屋には分工場、東京の本社・工場は本所区の太平町へと移転し、東京電気の川崎工場の近くに三成社の川崎工場を建設しました。

三成社の活躍は、東京電気で社長を務める新荘吉生の目にも届きました。彼は井上に対し、株式市場に上場するための支援を行うことを提案したのです。井上はこの支援を受け、三成社と子会社2社、そして共同で業務を行っていた栄立社と東紙器製作所の5社が合併し、「聯合紙器株式会社」が設立されました。

その後、日本は工業化が進み、多くの会社や工場が建てられました。それに伴い、井上は段ボール事業も発展させていきました。より巨大な設備とするため、日本製紙株式会社を吸収合併し、板紙から段ボール箱までの一貫生産向上を構築する計画を実行。これには賛否両論がありましたが、井上の尽力で最終的には認められました。

ところがこの1ヶ月後、関東大震災の発生によって各地の工場は壊滅的な被害を受けました。関東圏はほぼ全滅という有り様でしたが、大阪に立ち上げた一貫生産工場がラインを稼働させていたおかげで損失は最小限で済みました。

やがて段ボールは輸送や保管、梱包に欠かせない包装紙材としての立ち位置を確立させていきます。太平洋戦争を経ても会社は生き残り、高度経済成長時代には段ボール箱の需要がますます増加していきました。新工場の設立もペースアップし、経営は順風満帆に進んでいったのです。

1963年、井上は82歳でこの世を去りました。1972年元日、「聯合紙器株式会社」は社名を「レンゴー株式会社」に改め、段ボールだけでなく製紙業やラッピング事業なども手がけるようになっていきます。レンゴーは現在も段ボール製造の超大手として活動を続けています。

今回は、段ボールを日本で初めて製造した井上貞治郎の生涯を振り返りました。丁稚から始まり、30回以上の転職を経て彼が大成功を収めたのは、決して諦めない気持ちがあったからに他ならないでしょう。段ボールは今でも輸送の現場で重宝される素材です。宅配サービスや引っ越しなどの際に段ボールを見かけたとき、これまで以上にそのありがたみを感じられるでしょう。

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