【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくり®ヒストリー 万年塀(鉄筋コンクリート組立塀)の発明家 伊藤為吉(日本最初のドライクリーニング店「伊藤組洗染所」の創業者)
2025.10.17

AKI
私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。日本には、数多くの神社や寺などの建築物があります。わびさびのある外観や木材を使用した構造など、日本独自の建築文化は現代にも息づいています。明治24年、濃尾で大きな地震がありました。建築物の多くは倒壊し、揺れに耐える構造の住宅が求められていました。そこで木造家屋の耐震化に取り組んだのが、建築家の伊藤為吉です。彼はクリスチャンであり、教会の建築も手掛けたほか、日本初のドライクリーニング店を開店したことでも知られています。今回はそんな伊藤為吉の生涯を振り返っていきましょう。
伊藤為吉の前半生(アメリカに留学してアルバイトをした経験を活かして日本最初のクリーニング店を開店し、建築家としても活躍する)
伊藤為吉は1864年、伊勢国松坂で生まれました。
17歳のときに上京し、尾崎行雄の家に厄介になりながら工部大学校で機械工学を学びました。学校では幸田露伴や郡司成忠などと親交を深め、漢学の勉強にも励みました。その後は攻玉社に学僕として住み込み、このときに片山潜と知り合います。
22歳の時、伊藤は片山とともにアメリカに行き、サンフランシスコ付近の修道会で住み込みで働き始めました。学費を払うため、クリーニング店とイタリア人建築家カッペレッティの建築設計事務所で製図工としての仕事を掛け持ちし、建築と物理学を学びました。1888年に帰国すると、彼は日本最初のドライクリーニング店「伊藤組洗染所」を開店しました。さらにアメリカで培った建築技術を活かし、アメリカ式の家具製造と洋風建築の設計施工の仕事も始めました。
建築家としての評判はすぐに上がり、伊藤は腕の立つ設計技師として有名になっていきました。銀座の初代服部時計店や日本博品館、愛宕ホテル、本郷春木町の中央会堂、麻布教会などを手掛け、1893年に郡司成忠が千島探検に出た際には、3時間で組み立てられるプレハブ式家屋を送りました。
伊藤為吉の後半生(濃尾地震の被害にショックを受けて万年塀(鉄筋コンクリート組立塀)を発明する)
明治24年、濃尾で大きな地震が発生しました。マグニチュード8.0というかなりの巨大地震であり、日本史上最大級の内陸地殻内地震としても知られています。濃尾に住んでいた人たちは壊滅的な被害を受け、建物も無事では済みませんでした。この地震をきっかけに、伊藤は大地震や強風にも耐えうる木造建築の研究を始めました。木造家屋の耐震化は国が正式に制度として整備したため、伊藤の出る幕はなくなってしまいます。しかし伊藤は耐震化に注いでいた情熱を、発明や社会貢献のために昇華していきました。建築用具の発明、職工徒弟の教育などが彼の行っていた取り組みです。建築にまつわるもののほか、さまざまな発明を行っていたこともあり、生涯で70近い特許を取得しました。
やがて建築のあり方は変わり、より強固な耐震性を備えるためには素材を木ではなく鉄やコンクリートなどにすることが一般的となりました。伊藤は東京工大の田辺平学田辺平学が提唱したものに先駆けて、コンクリートブロック式耐震構造から万年塀を考案します。伊藤の万年塀は、関東大震災に際しても破損しなかったといいます。1917年にコンクリート製造研究所を設立し、1926年には 伊藤式コンクリート製造所を独力で始めました。経営は順調であり、多くのコンクリート建築が生み出されました。この頃、伊藤は古物商にも食指を伸ばしており、古銅器のコレクションを携えて再びアメリカのロサンゼルスへと出発しました。古銅器展を開き、2年ほどの経営の末日本に戻りました。アメリカから帰国した翌年、大阪に研究所を作り、無限動力機関の発明に没頭しました。世の中は大戦のさなかであり、商売をするのにも命懸けでしたが、彼はたくましく激動の時代を生き抜きました。1943年、伊藤は大阪の地でその生涯を終えました。彼の墓は染井霊園に建てられています。
今回は明治から昭和の時代に建築士として活躍した、伊藤為吉の生涯を振り返りました。日本建築は伝統的な文化の一つであり、その造形の美しさは海外でも注目されています。芸術的な要素だけでなく、人が暮らすための住宅や会社などの建物は性能の面も進化していく必要がありました。大きな地震によって耐震性能への必要性が明らかになり、伊藤も耐震性能を兼ね備えた建築物の制作に大きく貢献しました。彼のような人物の努力のおかげで、今の私たちの安全な暮らしがあるということは忘れないようにしたいですね。



