【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくり®ヒストリー 人力車の発明家 和泉要助(明治政府から正式に人力車の発明者として認定された「人力車総行司」)
2025.10.14

AKI
私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。人力車は、京都や鎌倉などで営業されている観光用の乗り物です。観光用のほか、結婚式や祭事などに演出として使用されたり、歌舞伎役者の「お練り」などに使用されたりすることもあります。今でこそ地元を楽しむための特別な乗り物という立ち位置ですが、人力車が発明された明治・大正期には移動手段として利用されていました。和泉要助は、そんな人力車の発明に関わった人物のうちの1人です。彼は鈴木徳次郎、高山幸助とともに人力車の製造を行い、明治政府から正式に人力車の発明者として認定されました。今回はそんな和泉要助の生涯を振り返っていきましょう。
和泉要助の前半生(駕籠の代わりに人力車を発明して「人力車総行司」となる)
和泉要助は1829年、筑前国鞍手郡平泉村で生まれました。筑前福岡藩の藩士出水要の養子となり、のちに和泉要助に改名しました。和泉は鈴木徳次郎、高山幸助とともに、東京で見つけた馬車を参考に、人力車を思いつきました。それまで人力の移動手段といえば、大名などを乗せるための駕籠がありました。しかし人力車は人が担ぐものではなく、車輪を使ったもののため、速度や体力などの面で駕籠よりも優れていたのです。人力車の登場により、駕籠は完全に世間から姿を消し、職を失った多くの駕籠かきは俥夫へと転職しました。
1870年、東京府は発明者と和泉・鈴木・高山の3人に人力車の製造と販売の許可を与えました。販売の条件として、華美な装飾は避けること、事故を起こした場合には処罰することが伝えられました。3人は政府から提示された条件を呑み、晴れて「人力車総行司」として正式に人力車の業者として活動を始めました。人力車を新たに購入する場合にはこの3人の誰かから許可をもらう必要があるという仕組みを作りました。
和泉要助の後半生(特許制度の欠陥のために後発業者に市場を席巻される)
1871年までに、日本における人力車の数は爆発的に増加しました。1876年には東京府内で2万5038台の人力車が登場したと記録されています。19世紀末の日本には、20万台を越す人力車があったとされています。
登場したばかりの人力車は木製の箱に車輪を取り付けただけの代物でしたが、少しずつ改良が進み、やがて舗装されていない凸凹の道でも走行できる車輪が登場し、木製だった車輪はゴム製に代わり、やがて空気を入れて膨らませるゴムタイヤへとその姿を変えていきました。
1870年代半ば、人力車は中国を中心に東南アジアやインドに至るアジア各地への輸出が始まりました。特に東京銀座に秋葉商店を構えた秋葉大助は、ほろや泥除けのある現在見るような人力車を考案しました。さらに性能を高め、豪奢な装飾を施してより高く輸出できるように工夫していきました。
和泉ら3人組はこの時代の動きを歯がゆく思っていました。当初、人力車を製造できるのは彼ら3人だけのはずであり、後発の業者から使用料を取ろうと考えていたにもかかわらず、その計画は実現しなかったからです。当時の特許制度には穴があり、また使用料の徴収についても複雑な条文を理解する必要があったため、激増する俥夫をすべて取り締まることはできず、彼らは泣く泣く現状を受け入れるしかありませんでした。この出来事が、のちの日本に本格的な特許制度の誕生をうながすことになります。
とはいえ、和泉たちが人力車という文化的な発明を成し遂げたことに変わりはありません。1900年、彼らの功績は政府に讃えられ、賞勲局から和泉要助らに一時金を下賜されました。
今回は人力車の発明に関わった1人、和泉要助の生涯を振り返りました。3人の仲間とともに、後世まで残る文化を作った功績は非常に大きなものです。彼らが十分な利益を得られなかったことは残念ですが、そのことがきっかけで特許制度に一石を投じることになったのは間違いありません。時代を動かす出来事がいつ起こるのか、誰にも予想できませんね。



