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【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくり®ヒストリー 地動儀(震度計)の発明者 張衡(力学の研究開発に取り組んで水力渾天儀(天体観測儀)や水時計、風向計、地動儀(震度計)などを発明して、天文学者や数学者としても活躍した後漢時代の官僚)

じっくりヒストリー IP HACK

2025.08.01

AKI

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。かつて中国で栄えた漢王朝は、統治されていた時代により前漢と後漢に区分されています。後漢の時代、多くの科学者や発明家が登場し、人類全体にとっても重要な発見・発明がなされました。自然現象は古来、神や悪魔などといったオカルティックな存在によるものだと信じられていましたが、風速計や地動儀(震度計)、水時計などの発明により自然現象の原因を正確に捉えられるようになっていきました。これらの発明を残したのが、発明家でありながら数学者・天文学者などとしても優れた才能を発揮した張衡(ちょうこう)です。彼はまた文人としての才能もあり、賦(漢帝国における詩歌のような文芸)や絵画などの作品を残しました。今回はそんな張衡の生涯を振り返っていきましょう。

張衡の前半生(役人として活躍するが、学問に専念するようになる)

張衡は78年、西鄂県で生まれました。祖父は蜀郡の太守(知事)を務めており、地方政治の中枢をになっていました。しかし張衡の祖父は清廉な性格であり、金銭的に余裕があるからといって放蕩する生き方を良しとしていませんでした。やがて張衡の祖父は要職を解かれ、一族は没落しました。父も早くに亡くなり、張衡は祖父のもとで清貧の時代を過ごしました。

暮らしは貧しかったものの、張衡は上質な教育を受けることができました。幼少期から文学芸術に触れ、10歳ごろには彼の詩が人々の賞賛を浴びるほど優れた才能を発揮しました。青年期を迎えると、洛陽と長安で勉学に励み、青春時代をそこで過ごしました。すでに彼の評判は周囲の大人たちの知るところとなり、各所で彼を自分の職場に招こうとする動きもありましたが、張衡は働きに出るよりも自分を高めてくれる友人や師に出会うことを優先しました。特に天文・数学に詳しい崔瑗からは多大な影響を受けました。

永元14年(102年)、南陽郡守である飽徳のもとで主簿(政治家の事務官)となって働き始めました。永初元年(107年)には、平和な国のなかで権力者たちが過剰に贅沢な暮らしをしていることを嘆き、その憂いを絵画で表現しました。歴史家であり文学家でもあった班固の「両都賦」を参考に、洛陽を描いた「東京賦」と長安を描いた「西京賦」を著しました。この2作品は「二京賦」とも呼ばれています。永初2年(108年)、飽徳は大司農という要職に栄転し、洛陽に戻りました。張衡は飽徳についていかず、南陽に残って勉強を続けました。永初5年(111年)には郎中となり、この時代に揚雄の『太玄経』に触れたことで天文学や数学に興味を持つようになりました。

張衡の後半生(力学の研究開発に取り組んで水力渾天儀(天体観測儀)や水時計、風向計、地動儀(震度計)などを発明して、天文学者や数学者としても活躍する)

張衡は多くの学者や発明家と出会い、豊富な経験と知識を蓄えていました。力学の知識もその一つであり、歯車の発明に活用しました。117年、張衡は水力渾天儀(天体観測儀)や水時計、風向計などを発明し、132年には地動儀(震度計)を発明しました。地動儀が完成してからしばらくしたある日、地動儀の設置場所からみて西北方向の地震の揺れを感知しますが、人々は少しの揺れも感じませんでした。このことから、一部の人は地動儀の精度に疑いを持つようになりました。しかし数日後、甘粛から急使が来て、地震の発生のことを報告しました。この一件以来、地動儀の正確性を疑う人はいなくなりました。

また、張衡は天文学者としても大きな活躍をしました。この時代、後漢では地震や水害など、天災に多く見舞われました。甚大な被害を避けるために、中国に住む科学者たちは地震を探知する発明や天体の動きを観測する発明が求められていました。

張衡は「渾天説」の立場に立ち、天文学書として『霊憲』『霊憲図』『渾天儀図注』を著します。2500個の星々を記録し、月と太陽の関係も研究しました。著書の「霊憲」では月が球形であることを主張し、月の輝きは太陽の反射光だとしました。「霊憲」の中には、月食の原理について記述があります。月の直径も計算したとされ、太陽の1年が365日と1/4となることを導きました。

天文学者としての張衡は現代の中国でも高く評価され、小惑星には、彼の名がつけられています。また中華人民共和国政府が指定した「中国古代科学家」に祖沖之、一行、李時珍と並んで名を連ねています。2018年2月に打ち上げられた電磁環境モニター試験衛星や1986年に隕石から発見されたツァンヘン鉱は張衡の名に因む呼び名が付けられています。

数学書としては「算網論」を著し、円周率がπ=3.16という近似値を算出しました。これはインド・アラビアに比べて400年ほど早い発見でした。

永建3年から永和元年(128年 – 136年)の間、張衡は再び太史令を務めました。張衡は予言の類を嫌い、厳しく批判しました。136年には都を追われ、河間国の相(宰相)となりました。河間国では官吏や土豪の不正を激しく取り締まったため、かえって排斥されてしまいます。官を辞したい意向を奏上するが許されず、永和3年(138年)には尚書として呼び戻されますが、永和4年(139年)、62歳にして病死しました。現在の南陽市には張衡の墓と張衡記念館が存在します。

今回は、後漢の官吏で多くの科学的な発明を残した張衡の生涯を振り返りました。水力で動く渾天儀は世界初の発明であり、天体の研究が大きく進むきっかけとなりました。その後も続々と発明を行い、中国の科学は飛躍的に進歩しました。後世に残る発明をした彼の功績は、大きく讃えられるべきものですね。

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