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【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくり®ヒストリー ラジオの発明者 レジナルド・フェッセンデン(ラジオを発明したもののラジオビジネスに失敗して会社から追放された栄光なき天才発明家)

じっくりヒストリー IP HACK

2025.06.27

AKI

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。無線電話の始まりは、現在でいうラジオだとされています。1900年、世界で初めて電波に肉声を乗せて遠距離にいる人に届ける実験が成功しました。初期は歪みがひどく、聞き取りは困難でしたが、その後に改良が進みクリアな音声が伝わるようになっていきました。この実験に挑戦し、成功を収めたのがカナダの発明家レジナルド・フェッセンデンです。彼は、高出力送信、ソナー、テレビなどの分野でも発明を行い、多くの特許を取得しました。今回はそんなレジナルド・フェッセンデンの生涯を振り返っていきましょう。

レジナルド・フェッセンデンの前半生(大学を中退してトーマス・エジソンの研究所などで電気工学の研究者として活躍してラジオを発明する)

レジナルド・フェッセンデンは1866年、カナダのケベック州イーストボルトンで生まれました。父親はカナダのイギリス国教会の聖職者で、家族を伴ってオンタリオ地方を転々としていたときに彼が誕生しました。フェッセンデンは成長するにしたがって、学業で優秀さを見せるようになりました。1877年、11歳のとき、オンタリオ州ポートホープの学校に入学し2年間通いました。14歳のときには、ケベック州Lennoxvilleのビショップ・カレッジ・スクールで数学のマスターシップの称号を与えられました。在学中、10代でありながら年下の生徒には教師として数学を教え、同時に年上の学生に混じって数学を学んでいた。18歳になると、彼は「学ぶべきことは全て学んだ」として同大学を中退しました。

1886年、フェッセンデンはニュージャージー州ウェストオレンジに新たに作られたトーマス・エジソンの研究所に入り、音声信号受信機の設計を行いました。彼はこの仕事で才能を発揮し、業界内でも一定の知名度を獲得しました。1890年から1900年までは製造業者を転々とし、1893年にはピッツバーグ大学の電気工学部長に就任しました。

1900年、フェッセンデンはアメリカ気象局に在籍していました。働く間、彼は2つの信号を混ぜ合わせることで新たな周波数の音が生まれ、離れた場所でも音声を聞き取ることができる「ヘテロダイン原理」を発見しました。フェッセンデンはこの原理を実証するため、高周波火花送信機を使った音声信号の送信実験を行いました。およそ1.6km離れた場所で音声を受信することができ、これが世界初の音声信号の無線通信とされています。

ここから、フェッセンデンは研究に全面的に乗り出します。資金を集めるため、National Electric Signaling Company(NESCO)を創設して無線通話のための設備開発に取り組みました。ゼネラル・エレクトリックと契約し、高周波交流発電式送信機の設計と製作のための支援を獲得します。通信速度を速めるために、より高速かつ高出力の装置の開発をアーンスト・アレキサンダーソンに依頼し、1906年には約50kHzの周波数の送信機が完成しました。

フェッセンデンは完成した送信機を使ってブラントロックで新たな交流発電式送信機の公開実験を行い、2地点間の無線電話や既存の有線電話網に無線を相互接続しての通話を試みました。数日後、追加の公開実験を行い、これが娯楽および音楽を一般向けに流した世界初のラジオ放送とされています。しかしこの放送を行った当時、ラジオは一般家庭に普及している道具ではなく、放送を聴けたのは一部のマニアと沿岸を航行する船の無線技師たちのみでした。このため当時はラジオ放送に成功したことの重要性が理解されず、注目は集まりませんでした。

レジナルド・フェッセンデンの後半生(ラジオビジネスに失敗して会社から追放される)

ラジオの発明は着実に進み、技術的にはかなりの速度で進歩していったものの、会社の経営は立ち行かず財政面では苦戦が続きました。NESCO経営陣とフェッセンデンの間には軋轢が生じ、最終的にはフェッセンデンが会社に解雇される形となってしまいます。この件でフェッセンデンはNESCOを相手に訴訟を起こし、第一審では勝訴したものの控訴審で控訴審での軍配は控訴審でNESCO側に上がりました、同社は1920年にウェスティングハウスに売却され、翌年にはフェッセンデンの数々の重要な特許が資産としてRCAに売却されました。

レジナルドがNESCOを解雇された後も、アレキサンダーソンはGEで交流発電式送信機の開発を続けました。数年をかけてアレキサンダーソンは大西洋横断の通信が可能な高出力の送信機を完成させ、1916年には大西洋横断通信で火花送信機よりも高い信頼性を発揮するようになったのです。1920年以降、真空管を使った送信機での音声ラジオ放送が広まりましたが、変調方式はフェッセンデンが1906年に採用したAM方式でした。

NESCOを解雇された後、フェッセンデンは無線の研究から退き、まったく別の分野で働きました。1904年から支援を始めていた、ナイアガラの滝での水力発電の設計に携わっていたのです。ここではソナー開発にも関わり、潜水艦同士が信号を送るシステムやタイタニックの悲劇を繰り返さないよう氷山の位置を確認する方法を開発しました。第一次世界大戦が勃発するとカナダ政府に協力を申し出てロンドンに出向き、敵の大砲を検知する機器や敵の潜水艦を検知する機器の開発を行いました。

フェッセンデンはその生涯で最終的に500以上の特許を取得しました。ラジオやソナーのほか、曳光やポケットベル、テレビ装置、船のターボ電気駆動などが彼の取得した特許の一例です。

1932年、フェッセンデンはその生涯を終えました。

今回は、ラジオの黎明期を築いたレジナルド・フェッセンデンの生涯を振り返りました。現在、電話は当たり前のように使用されている道具ですが、その起源にはフェッセンデンの苦労がありました。世界で初めて実用的な無線通話に成功しながらも、財政難により研究の表舞台から姿を消した彼の生涯は苦難に満ちていました。電話の歴史を知ると、一層この便利なアイテムを自由に使えることにありがたみを感じられますね。

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