【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくり®ヒストリー ラビットボールの発明者 石井順一(ホームランが増えすぎたために規制された飛びすぎるボールを発明した日本代表監督)
2025.05.30

AKI
私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。プロ野球の試合で使用されるボールにも、発明が繰り返されてきた歴史があります。かつて、試合を盛り上げるために飛びやすい「ラビットボール」というボールが使用され、ホームランが量産された時代がありました。しかし、あまりにもホームランが増えすぎたために競技としての面白さを損なうとして、ラビットボールの使用は反発力に関する規定が作られるきっかけとなったのです。このラビットボールを発明したのは、日本の野球指導者、石井順一です。彼は早稲田実業学校野球部や日本代表の監督を務め、その後はバットやボールの製造で活躍しました。今回はそんな石井順一の生涯を振り返っていきましょう。
石井順一の前半生(運動具店の息子に生まれて早稲田実業学校と早稲田大学の野球部で活躍する)
石井順一は、1899年に東京で生まれました。彼が生まれた年、父親は文京区にある湯島天神の下に運動具店「カジマヤ商品本店」を開きました。野球バットやテニスラケットを扱っており、店を開いた当初は外国からの輸入品を仕入れて販売していましたが、石井の祖父と父親は自分たちの手で商品を作ることに決めました。祖父が甲府を訪れた際に見つけた物売りの天秤棒がしなるのを見て、バット作りを独自に行おうと考えたのです。2人は知り合いの大工を呼んでアイデアを出し合い、バットとラケットの生産を始めました。
店には、祖父と父親の知り合いをはじめ顔馴染みの客が訪れるようになりました。三菱財閥のオーナーを務める岩崎家の1人、岩崎彦弥太は顔を見せるついでに、石井にキャッチボールを教えました。この時、石井は初めて野球ボールを手にしたのです。これがきっかけとなり、石井は野球にのめり込んでいきます。それから10年後、石井は早稲田実業学校に入学し、野球部のメンバーとなって活躍しました。1番・5番・遊撃手としてチームに貢献し、全国大会ベスト4という成績を残しました。高校を卒業した石井は早稲田大学商科に進学し、大学でも野球に打ち込みました。名選手との評価を獲得していた石井は安部磯雄団長、飛田穂洲監督のもとでアメリカ遠征に参加し、将来を嘱望されていたのです。しかし大学在学中、父が亡くなったことで実家の店を継ぐことを決意しました。
石井順一の後半生(アメリカでスポーツ用品職人として修行して、帰国後にボール製造機やラビットボールや圧縮バットを発明する)
実家の商店を継ぐと同時に、石井は早稲田実業の監督に就任しました。1923年の第9回全国中等学校優勝野球大会でベスト8という成績を残しました。しかしこの年、関東大震災によって東京は絶大な被害を受けました。店も消失してしまったため、石井はアメリカに行き、シアトルでスポーツ用品職人として修行をすることに決めました。アメリカに行ったことで、日本とアメリカの橋渡しの役割もにないようになり、野球を通じた国交の親睦にも貢献しました。
アメリカから帰国した石井は、自身が率いるクラブチーム「東京倶楽部」を結成します。ユニフォームを自らが製作し、1927年から始まった都市対抗野球大会に毎年出場しました。石井本人が試合に出ることはあまりありませんでしたが、第4回大会では主将としてチームを初の優勝に導きました。
1943年、石井はボール製造機を開発。当時の野球ボール作りは職人の手作業によってのみ行われており、圧倒的に数が足りないことが問題でした。この機械の発明によってより多くのボールを量産できるようになり、品質も一律にムラなくできるようになったのです。終戦から2年後の1947年、石井は拠点を千葉に移し、ボールとバットの製造を手がける専門店「ジュン石井」を創業しました。石井はボール製造機を日本野球連盟に売り込み、機械の提供の代わりに良質な毛糸を仕入れてもらう契約を結びました。こうして、プロ野球の試合球にジュン石井製の良質なボールが使われることになりました。
1950年、プロ野球はセ・リーグとパ・リーグの2つに分かれます。石井は鈴木龍二セ・リーグ会長から試合中に客が帰ってしまうのを防ぐための手段について問われ、ホームランを出やすくするためにより飛距離の出る「ラビットボール」の開発を提案しました。また同時期、折れやすいバットを改善するための策も講じました。バット製造に最適な木材はトネリコですが、バット以外にも広い用途で使用されるトネリコは素材としての人気が高く、手に入りにくい状況となっていました。そこで石井はヤチダモに注目します。トネリコに比べると軽量であり、何度かボールを打つと表面にささくれができてしまうなどの問題もありましたが、石井は樹脂加工を使って強度を高めました。このバットは圧縮バットと呼ばれ、のちに一本足打法で通算868本のホームランを放った王貞治に好んで使われました。
ラビットボールが導入された1949年から1950年までの1年、石井の狙い通りボールはよく飛び、ホームランが量産されるようになりました。しかしあまりにもホームランが出過ぎたために、観客の足を止めるどころか試合をつまらなく感じてしまう観客が増えてしまいました。危機感を覚えたNPBは野球ボールに反発力の規定を設け、基準をクリアしたボールのみが試合に使用される方式を採用しました。さらに圧縮バットの使用に関しても問題視する動きが生じ、やがて反発力の高いボールと圧縮バット両方の利用が禁止されることになります。その後、石井は繊維強化プラスチック製バットを発明しますが、金属バットの登場によって普及することはありませんでした。
1991年、石井は92歳でこの世を去りました。店は1996年に廃業し、野球界における功績を残したまま、その歴史は幕を下ろしました。
今回は、野球ボールとバットの製造において重要な役割を果たした石井順一の生涯を振り返りました。東京の小さな商店から始まり、自身は選手や監督として野球に関わりながら、引退後は業界のためにボールやバットの製造を続けた石井は野球の世界における偉人と言っても過言ではないでしょう。ラビットボールや圧縮バットには批判の声もあったものの、道具の使用についての議論を生み出したのはひとつの功績だといえます。大好きなスポーツに生涯を捧げた人生は、素敵なものだったに違いありません。



