【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくり®ヒストリー 遠近法を発明した フィリッポ・ブルネレスキ(オーダー(円柱と梁を組み合わせた構成法)の発明家としても知られるイタリアの彫刻家・建築家)
2024.10.15
AKI
私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。平面の絵や画像に奥行きを出し、立体的に描画する手法を遠近法といいます。遠くに見える物体は小さく、近くに見える物体を大きく描くことで、遠近感を演出します。遠近法が生まれたのは、紀元前にまで遡ります。現在の作画でよく使われている、線を使った遠近法が完成したのはルネサンス期のことでした。遠近法を発明したのが、イタリアの建築家フィリッポ・ブルネレスキです。彼はルネサンス最初の彫刻家であり、オーダー(円柱と梁を組み合わせた構成法)の発明家としても知られています。今回はそんなフィリッポ・ブルネレスキの生涯を振り返っていきましょう。
フィリッポ・ブルネレスキの前半生(透視図法(遠近法)やオーダー(円柱と梁を組み合わせた構成法)を発明する)
フィリッポ・ブルネレスキは1377年、フィレンツェの公証人の子として生まれました。幼少期から読み書きと算術、ラテン語を教わります。家業は継がず、金細工師として働きました。1400年頃までルナルド・ディ・マッテオ・ドゥッチ・ダ・ピストーイアの工房で働いており、ピストーイアのサン・ゼーノ大聖堂にあるサン・ヤーコポ祭壇の半身像、預言者エレミヤとイザヤなどを作成したとされています。
1401年、フィレンツェに戻ったブルネレスキは、輸入繊維商組合が主催するサン・ジョヴァンニ洗礼堂の第二青銅扉のための作成競技に参加します。課題は「イサクの燔祭」で、7人の参加者との競争の結果、ブルネレスキとロレンツォ・ギベルティの作品が最終選考まで残りました。このとき、ブルネレスキはギベルティの作品がもっとも優れていると主張し、選考委員にギベルティを当選させるように意見しました。しかし選考委員はブルネレスキの作品も高く評価しており、どちらを当選させるかは非常に悩ましい問題でした。結局、どちらかに軍配が上がることはなく、ブルネレスキとギベルティは2人での共同作業をするように命じられます。ブルネレスキはこの判断を受けて、扉の制作を辞退しました。2人の作品は、現在もフィレンツェのバルジェロ美術館に保存されています。
1404年、ブルネレスキは絹織物業組合のマエストロとして登録されます。サンタ・マリーア・ノヴェッラ聖堂における木彫りの等身大磔刑像の作成と彩色を行ったとされていますが、正確な年代ははっきりしていません。さらに、透視図法を初めて活用してサン・ジョヴァンニ洗礼堂とシニョリーア広場を描いたのもフィリッポ・ブルネレスキだとされています。遠近法自体は紀元前から存在している手法ですが、数学的に捉えられたのはルネサンス期が初めてのことです。
1401年のサン・ジョヴァンニ洗礼堂の扉作製選考から、1418年のサンタ・マリーア・デル・フィオーレ大聖堂のクーポラ設計競技の告示までの間、ブルネレスキは何度かローマを訪れ、ローマ建築の構成について研究を行いました。そこで梁の組み合わせに一定のルールを発見し、「オーダー」と呼ばれる構成法を発見しました。
フィリッポ・ブルネレスキの後半生(数々のルネサンス時代の歴史的な建造物の設計をして大活躍する)
1410年代後半、サンタ・マリーア・デル・フィオーレ大聖堂のドラム工事も終盤に差し掛かりました。毛織物業組合傘下の大聖堂造営局は、クーポラ(ドームの屋根に取り付ける構造体)の設計方法について検討し始めます。ブルネレスキにも、建設に関しての意見を求めていたとされています。
最終的にどのような方法で決まったのかは定かではありませんが、大聖堂のドーム工事は無事に終わりました。クーポラの建設方法と工事監理者が決定するまでの間、1419年にはブルネレスキが所属する絹織物業組合が運営する孤児養育施設、捨子保育院の建設が開始され、ブルネレスキはその図面の制作を請け負いました。この施設は1445年に運用が開始されており、事実上、ルネサンス最初の建築物とされています。
1423年8月27日、大聖堂造営局はブルネレスキにサンタ・マリーア・デル・フィオーレ大聖堂の総監督の肩書きを与え、年俸100フィオリーノ・ディ・スジェッロの支給を決めました。しかし翌年の1424年に始まるミラーノ公国との戦争の影響で、フィレンツェ支配下の城砦の修復の方に駆り出されることになります。記録に残るだけでも、1424年から1440年まで、城塞建設のために何度かピーサに赴いており、チッタデッラ・ヴェッキア、パルラシオ門、チッタデッラ・ヌオヴァなどの建設に従事しています。
1426年から、クーポラの建設はブルネレスキが一手に引き受けるようになります。しかし戦況は激化し、フィレンツェ経済は深刻な打撃を受けました。1429年にはルッカを相手とした戦争が始まり、大聖堂の工事は中止を余儀なくされました。とはいえ、そのほかの工事よりは順調に進み、1436年に完成し教皇エウゲニウス4世により、サンタ・マリーア・デル・フィオーレ大聖堂の献堂式が執り行われました。その後もブルネレスキは数々の建設に関わり、評判をあげていきました。
1440年をすぎた頃から、ブルネレスキの活動範囲は狭くなっていきます。パラッツォ・ディ・パルテ・グエルファの大広間の計画に参加していたものの、この仕事の一部を養子に預けます。この前年、ブルネレスキは資産申告書において、年齢を理由に働けなくなったと記載しています。1446年、ブルネレスキはこの世を去りました。大聖堂造営局はブルネレスキの葬儀をサンタ・マリーア・デル・フィオーレ大聖堂で行うことを決定し、1447年に同聖堂で執り行われました。
今回は、ルネサンス最初の彫刻家フィリッポ・ブルネレスキの生涯を振り返りました。数多くの大聖堂の建築に関わり、技術としての遠近法を確立させた彼の生涯は、現代の美術・建築にも大きな影響をもたらしています。ルネサンス期の歴史は文化的な革命期でもあり、この時代に生きた人物たちの生涯は非常に興味深いエピソードばかりです。