【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくり®ヒストリー ヘリコプターや戦車を発明した レオナルド・ダ・ヴィンチ(ルネサンス時代の万能の天才、芸術・医学・土木・軍事などのあらゆる分野で活躍した天才発明家)
2024.10.07
AKI
私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。中には、たった1人で多岐にわたる分野に功績を残した人物も存在します。名画『モナ・リザ』を描いた画家として知られるレオナルド・ダ・ヴィンチも、歴史に名を残した人物の1人です。芸術家・画家としての側面がよく知られているダ・ヴィンチですが、実は音楽や建築、料理などの分野でも活躍していました。幅広い知見を持ち、その範囲は常軌を逸するといって差し支えないものです。今回はそんなレオナルド・ダ・ヴィンチの生涯を振り返っていきましょう。
レオナルド・ダ・ヴィンチの前半生(独学で教育を身に着けて、芸術家ヴェロッキオに弟子入する)
レオナルド・ダ・ヴィンチは、1452年トスカーナのヴィンチ村で生まれました。「ダ・ヴィンチ」というのは厳密には姓ではなく、「ヴィンチ村出身の」という意味の言葉です。のちに自らの姓を「ダ・ヴィンチ」と名乗ったこともあり、現在ではレオナルド・ダヴィンチを指す名称として使われています。父親はフィレンツェで公証人として活動しており、裕福な家庭でした。
当時のヨーロッパでは古代ギリシャ・ローマの文化を復興しようとする動きが活発になっており、芸術への親しみが高まっていました。そんな時代の中、ダ・ヴィンチも芸術に深く関わりながら過ごしていったのです。5歳までは母親とともに生まれついた集落で暮らし、以降は父親と祖父母、そして叔父と一緒に都市部で過ごしました。学校には通えず、祖父母からイタリア語の教育を受け、ヴィンチ村の少年たちからラテン語や数学、幾何学、絵画などを教わりました。教育といっても正式なものではなく、すべて見聞きした程度でありほとんどを独学で身につけたとされています。
1466年、ダ・ヴィンチはフィレンツェの芸術家ヴェロッキオに弟子入りして、芸術についてのさまざまな知識を吸収しました。この時期、ダ・ヴィンチの豊かな才能が開花します。絵画や彫刻などの芸術分野のみならず、設計や金属加工、機械工学など技術全般の知識を身につけました。
ヴェロッキオの工房で製作される絵画のほとんどは、弟子や工房の雇われ画家による作品でした。絵画『キリストの洗礼』はヴェロッキオの最後の作品であり、ダ・ヴィンチの合作とされています。ダ・ヴィンチが担当したのはキリストのローブを捧げ持つ幼い天使のドローイングで、ヴェロッキオはそのあまりの出来の良さを目の当たりにしたために筆を折ってしまったとの逸話があります。近代の分析によると、風景、岩、キリストの大部分などもダ・ヴィンチが手がけたものだとか。
目覚ましい活躍を見せたダ・ヴィンチは20歳になるまでに、聖ルカ組合からマスター(親方)の資格を取得しました。聖ルカ組合は、芸術だけでなく医学も対象としたギルドです。その後は独立し、ヴェロッキオと協業して工房を営んでいきました。
レオナルド・ダ・ヴィンチの後半生(チェーザレ・ボルジアの軍事技術者としてヘリコプターや戦車を発明する)
1476年、ダ・ヴィンチは同性愛の疑いで裁判にかけられました。最終的には放免となりましたが、1476年から1478年までの間のダ・ヴィンチの作品に関する記録は残っていません。1478年以降は父親の家を離れ、ヴェロッキオとの共同制作も取りやめてしまいます。しかしこれ以降、ダ・ヴィンチは生涯にわたって後世に残る作品を生み出し続けました。
ダ・ヴィンチは1482年から1499年まで、ミラノ公国で活動しました。この時代に、『最後の晩餐』を描いたとされています。そのほか、ミラノ公ルドヴィーコからの依頼でイベントで使用する山車とパレードのセッティング、ミラノ大聖堂円屋根の設計、スフォルツァ家の初代ミラノ公フランチェスコ・スフォルツァの巨大な騎馬像の制作を依頼されました。ただし騎馬像については、すぐに制作を開始できませんでした。最終的に原型が完成したのは1492年のことであり、その後も制作は思うように進まなかったのです。騎馬像制作のために17トンもの青銅が用意されましたが、1494年にフランス王シャルル8世のミラノ侵攻に対抗するための大砲の材料として消費されてしまいます。
1499年、第二次イタリア戦争が勃発。イタリアに攻め込んだフランス軍は、ダ・ヴィンチが作った騎馬像を射撃練習の的にして破壊してしまいました。ダ・ヴィンチは弟子や友人らとともにヴェネツィアへと避難しました。
1502年にレオナルドはチェゼーナを訪れ、ローマ教皇アレクサンデル6世の息子チェーザレ・ボルジアの軍事技術者として活躍しました。レオナルドの軍事分野の発明としては、ヘリコプターや戦車の設計図などが残されています。
1504年、イタリアの勝利で第二次イタリア戦争は幕を下ろしました。1506年、ダ・ヴィンチはミラノを訪れましたが、父親が死去したこともありミラノに滞在したのはわずかな期間のみでした。1507年にはフィレンツェに戻り、父親の遺産を巡って兄弟たちと争いました。翌1508年にはミラノへ戻り、サンタ・バビーラ教会区のポルタ・オリエンターレに購入した邸宅で暮らしました。
その後もダ・ヴィンチは多くの人から依頼を受けたり、自らも絵画を制作したりして過ごしました。1516年、フランソワ1世に招かれ、クルーの館で食客として過ごしました。1519年に亡くなるまで、ダ・ヴィンチはこのクルーの館に身を置きました。
今回は、歴史上もっとも多くの分野で功績を残したとされるレオナルド・ダ・ヴィンチの生涯を振り返りました。芸術について飛び抜けた才能を持ち、現代でも名画として知られる絵画をいくつも残した彼の生涯は尊敬に値します。ダ・ヴィンチの作品について、制作された時期や手法などは未だ不明点が多く、研究の対象となっています。今後新しい発見がなされるのか、非常に楽しみですね。