【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくり®ヒストリー 望遠鏡を発明した ガリレオ・ガリレイ(「近代科学の父」「天文学の父」と称された、イタリアの数学者・物理学者・天文学者)
2024.10.04
AKI
私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。科学の歴史をたどると、人類を飛躍的に進化させたターニングポイントがいくつも存在します。さまざまな研究が続けられ、緩やかに成長を続けてきた側面はあるものの、発展のきっかけとなるもっとも大きなものはそうした節目での新発見や新発明だといえるでしょう。そして歴史が動く背景には、必ず発明家や科学者の存在があります。近代科学が大きく成長したのは、16世紀ごろ。この時代、ある1人の天才によって近代科学と天文学は著しい成長を遂げました。その功績を讃えて「近代科学の父」「天文学の父」と称されたのが、イタリアの数学者・物理学者・天文学者のガリレオ・ガリレイです。さまざまな逸話が残るガリレオについて、知っている方も多いでしょう。今回はそんなガリレオ・ガリレイの生涯を振り返っていきましょう。
ガリレオ・ガリレイの前半生(医学から数学・物理学・天文学に転向して望遠鏡を発明する)
ガリレオ・ガリレイは、1564年トスカーナ大公国領ピサで生まれました。父ヴィンチェンツォは貴族の生まれで、呉服商を営みながら周囲には音楽家としても知られていました。ガリレオには4人の弟と2人の妹がおり、大家族の中で暮らしていきました。
1581年、ガリレオは医学を学ぶためにピサ大学に入学します。しかしユークリッドやアルキメデスの書籍を読んでいくうちに、彼の興味は医学よりも数学や力学の領域へと移っていきました。さらに父親が亡くなり、家族を養うための費用や妹の結婚式のための持参金など、1585年、資金不足によりピサ大学を退学すると重力についての研究の道に進みました。1589年~1591年にはピサ大学の数学講師、1592年~1610年にはパドヴァ大学の数学教授として勤務しました。
物理学の分野では振り子の特性や斜面を転がる物体の特性などを起点として、1604年ごろには落下する物体についての運動法則の数学的定式化を完成させました。それまで、自然現象を思考実験や数学的な手法で捉えることは誰にも考えつかないことでした。仮説を立て、実験を行うことで検証していくやり方は、現代における「科学」を成立させる最初のきっかけとなったのです。
天文学の分野では、西洋人として初めて天体の観測に望遠鏡を取り入れました。1608年、ガリレオはネーデルラント連邦共和国(現在のオランダ)で望遠鏡の発明があることを知ると倍率を上げるための改良に取り掛かり、翌年には10倍、20倍の望遠鏡を発明しました。この望遠鏡を用いて、さまざまな天体の観測を行いました。1609年、ガリレオは月面に凹凸と黒い部分があることを発見。凹凸は現在でいうクレーター、そして黒い部分は海だと考え、月が完全な球体であるとするアリストテレスの考えが誤りであることを示しました。1610年には、木星の衛星を3つ発見。その後見つけたもう1つの衛星とあわせ、これらの衛星はガリレオ衛星と呼ばれています。
金星の観測では、金星が月のように満ち欠けを繰り返すうえに、大きさを変えることも発見しました。プトレマイオスモデルでは、金星は地球と太陽を結ぶ線に置かれた周転円の上にあるとされ、地球から見た金星は三日月型にしか見えないことになります。これは、金星が太陽の周りを公転していることの証明でした。さらに太陽の黒点を発見し、天文学に大きな躍進をもたらしました。
ガリレオ・ガリレイの後半生(宗教裁判にかけられて地動説を唱えた罪で投獄される)
ガリレオ以前、天文学者の間では天体の動きについて、地球は動かず周りの天体が回転する天動説が信じられていました。ガリレオはこれに異を唱え、地動説を提唱しました。当時、カトリック教会は地動説を唱える者を異端として排斥しようとしており、ガリレオもそのそしりを受けることになります。ガリレオは裁判にかけられ、有罪の判決が下されました。それまでに就任した役職はすべて剥奪され、投獄されることに。当初、ガリレオに科せられた刑罰は無期刑でしたが、判決直後に軟禁へと減刑されました。しかしフィレンツェへの帰宅は認められず、その後生涯にわたって監視付きの邸宅で過ごすことを強いられました。散歩以外は外出すら許可されず、家族とも離れ離れにされてしまいます。
失職に加えて高齢化の影響もあり、ガリレオは経済的に困窮していきました。病気がちになったガリレオは、やがて失明してしまいます。失明の原因は、かつて太陽を望遠鏡で直視していたことにもありました。このような過酷な状況にあってもガリレオは自分の考えを曲げることはせず、あくまでも地動説を主張し続けました。1642年、77歳でガリレオはこの世を去りました。
ガリレオの裁判については、正確な記録が残っていないため曖昧な部分が数多くあります。とはいえ、不当な扱いを受けていたことは明らかとなっています。ガリレオの死後、しばらくの間彼の名誉が回復することはありませんでした。ガリレオがローマ教皇の正式な許可に基づいて埋葬されたのは、1737年のことでした。
1965年、ローマ教皇パウロ6世はガリレオの裁判について言及したことをきっかけに、裁判の見直しが始まりました。最終的に1992年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、ガリレオ裁判が誤りであったことを認め、ガリレオに謝罪しました。ガリレオの死後350年が経ち、ようやく彼の名誉は回復したのです。
今回は、物理学や天文学で数多くの功績を残したガリレオ・ガリレイの生涯を振り返りました。現代でこそ彼の偉大さは世界中で語られ、歴史に名を残す人物として知られていましたが、彼の受けた不遇は熾烈を極めるものでした。権力争いに巻き込まれ、無念の死を遂げたガリレオの心痛は計り知れません。新しい発見があった時には、その真偽を見極める術を持ちたいものですね。