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【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくり®ヒストリー パウリの排他原理を発見した ヴォルフガング・パウリ(ノーベル物理学賞を受賞した天才物理学者)

IP HACK

2024.09.06

AKI

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。ナトリウムのD線の実験において、「磁場がない場合は単一波長の光が観察される」との予想が立てられていました。しかし実際には、予想に反してD線が2本に分裂することが発見されました。これを受けて、電子が2値の量子自由度を持つ可能性が出てきました。この電子の自由度は、電子が自転しているという仮説からスピンと呼ばれるようになります。スピン理論の登場によって、電子の動きを捉える解釈が広がっていきました。このスピンという考え方はのちに否定されますが、スピンという名称自体は残りました。スピン座標を使う「パウリの排他原理」も登場し、化学はより一層進化していきました。パウリの排他原理を見出したのは、オーストリア出身の物理学者ヴォルフガング・パウリです。彼はその業績から、1945年にノーベル物理学賞を受賞しました。今回はそんなヴォルフガング・パウリの生涯を振り返っていきましょう。

ヴォルフガング・パウリの前半生(若くして物理学の分野で大活躍して、パウリの排他原理を発見する)

ヴォルフガング・パウリは、1900年オーストリア・ウィーンの地で生まれました。彼のミドルネームは名付け親の物理学者エルンスト・マッハからとったもので、父方の祖父は有名な出版社を経営していました。

パウリは少年期をウィーンのドブリンガー・ギムナジウムで過ごし、1918年に卒業しました。優秀な成績を収めたパウリは卒業から2ヶ月後、アインシュタインの一般相対性理論に対する論文を発表しました。これはパウリの人生において最初の論文となり、18歳にしてその才能を世間に知らしめました。その後はミュンヘン大学に入学し、アルノルト・ゾンマーフェルトの下で研究を行いました。1921年、パウリは水素分子イオンの量子論に関する学位論文で博士号を取得します。相対性理論に関する標準的な参考書となっています。

その後、パウリはゲッティンゲン大学に入学。マックス・ボルンの助手を一年間務め、翌年にはコペンハーゲン大学の理論物理研究所で過ごしました。1923年から1928年の間、パウリはハンブルク大学の講師を務めました。パウリは量子力学の研究を熱心に行い、現代的理論の構築に大きく貢献しました。ここでスピンやパウリの排他原理を見つけ出し、科学界に大きな足跡を残しました。

ヴォルフガング・パウリの後半生(ヨーロッパとアメリカを行ったり来たりしながら研究をして、ノーベル物理学賞を受賞する)

1929年5月、パウリはローマ・カトリック教会を脱退し、12月にケーテ・マルガレーテ・デプナーと結婚しました。しかしこの結婚は長く続かず、1930年に離婚。

離婚後間もなく、パウリは精神的な不調に陥ります。ニュートリノの仮説を提唱しようとする直前でしたが、パウリの精神状態は研究活動に支障を来すほど追い込まれていました。パウリはチューリッヒ郊外に住んでいたカール・グスタフ・ユング医師を頼り、診察を受けました。パウリはすぐに自分の「元型夢」の解釈を始めるようになり、難解な心理学者ユングの最高の生徒となりました。それからパウリは、ユング理論についての批評をするようになり、特にシンクロニシティの概念について説明を加えました。

1928年、パウリはスイスのチューリッヒ連邦工科大学の理論物理学の教授に任命され、1931年にはミシガン大学の客員教授としてアメリカに渡りました。1935年にはプリンストン高等研究所に滞在。

1934年にパウリはフランカ・バートラムと再婚しました。バートラムは生涯の伴侶となりましたが、2人は子どもには恵まれませんでした。

1938年、ドイツによってオーストリアが併合され、パウリはドイツ市民となりました。パウリはユダヤ系の血を引いていたため、翌年の第二次世界大戦の勃発やナチスの台頭もあって危険が降りかかることを意味していました。1940年にドイツを離れ、再びアメリカを訪れると、パウリはプリンストン大学の理論物理学の教授となりました。終戦後、パウリはアメリカに帰化せず、チューリッヒに帰ることを決めました。ここで晩年まで過ごしました。

1945年、アインシュタインの推薦により「1925年に行われた排他律、またはパウリの原理と呼ばれる新たな自然法則の発見を通じた重要な貢献」が評価され、パウリはノーベル物理学賞を受賞。名実ともに、偉大な物理学者として後世に名を残すことになりました。

1958年、パウリは膵臓がんに冒され、闘病生活を送ることになります。膵臓がんの進行は早く、パウリはみるみる衰弱していきました。死の間際まで、パウリは研究のことを考えていました。病室が137号室だったため、微細構造が1/137に近い値を取るのはなぜか、という疑問を持ち続けていました。がんの発覚から1年も経たないうちに、パウリは58歳でこの世を去りました。

今回はパウリの排他理論で知られるヴォルフガング・パウリの生涯を振り返りました。若くして研究者としての才能を見せたパウリは有名な科学者たちにも気に入られ、大きな実績を残しました。物理学の考え方を現代のものとして導いた実績は、非常に大きなものといえるでしょう。ノーベル賞を受賞した人物の生涯をたどると、それぞれのエピソードを知ることができて面白いですね。

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