ブログ

【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくり®ヒストリー 不揮発性半導体メモリ「EPROM」を発明した ドブ・フローマン(インテル・イスラエル社の創設者)

IP HACK

2024.08.16

AKI

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。インテルは、「ムーアの法則」で知られるゴードン・ムーアとロバート・ノイスらによって創設されました。パソコンをはじめとした中央処理装置の開発で、世界的に知られています。本社をカリフォルニア州サンタ・クララに置き、世界各国でその製品が愛用されています。創設から現代に至るまで、技術の分野で最前線を走り続けてきたインテル。製品のみならず、世界中に支社を展開し、その活動の根を広げています。そんな支社のひとつ、インテル・イスラエル社を創設したのが、イスラエルの電気工学社ドブ・フローマンです。彼はインテルのヴァイスプレジデントを務め上げた実績でも知られています。今回はそんな、ドブ・フローマンの生涯を振り返っていきましょう。

ドブ・フローマンの前半生(オランダ→イスラエル→アメリカと移住して半導体の研究者となり、不揮発性半導体メモリ「EPROM」を発明する)

ドブ・フローマンは、1993年オランダのアムステルダムで生まれました。両親はユダヤ系ポーランド人で、現地での反ユダヤ主義の高まりから逃れるためにオランダに移住していました。フローマンが3歳になる1942年、ドイツは低地諸国への侵攻に踏み切ります。オランダも侵攻対象の国であり、もしもナチスに支配されればユダヤ人への弾圧が厳しくなることは想像に難くありません。そこで彼の両親は、フローマンをベルギーとの国境近く、キタブラバント州スプラング=カペレに住むレジスタンスの知人に預け、守ろうとしました。フローマンを匿ったのは、正教会教徒のファン・ティルボルフ家でした。フローマンは終戦までこの家で守られましたが、両親はホロコーストにより殺害され、幼くして家族と死別することになってしまいます。

戦後、フローマンは親戚の紹介を受けて、イスラエルの戦災孤児院を訪れました。そこで数年間過ごしたあと、1949年に建国したばかりのイスラエルに帰化しました。孤児院を紹介してくれた親戚の養子となり、テルアビブで教育を受けました。やがて青年期を迎えたフローマンは、イスラエル軍に従軍しました。それから、彼は技術者としての道を進むことになります。1959年、電気工学を学ぶためイスラエル工科大学に入学。1963年に大学を卒業すると、アメリカに渡ってカリフォルニア大学バークレー校で修士号と博士号を取得しました。1965年に修士号を取得した後、フェアチャイルドセミコンダクターの研究開発部門に就職しました。

1969年、フローマンは博士号を取得。その後、元フェアチャイルドのゴードン・ムーアとロバート・ノイス、アンドルー・グローヴらを追いかけて前年に設立されたインテルに入社しました。

インテルに入社後、フローマンが残した大きな功績が不揮発性半導体メモリ「EPROM」の開発です。消去可能かつ再プログラムを可能にした世界初のメモリというコンセプトで作られたこの商品は、フラッシュメモリの世界に技術革新をもたらしました。製品化に成功した後は飛ぶように売れ、1980年代に入ってもその勢いに翳りはありませんでした。

ドブ・フローマンの後半性(インテル・イスラエルの創設に貢献する)

EPROMを発明後、フローマンはガーナのクマシにあるクワメ・エンクルマ科学技術大学で電気工学を教えるため、インテルを退社。1973年にインテルに復帰しますが、それはイスラエルで技術研究センターを作ることを目指していたからです。1974年、インテルはイスラエルのハイファに小型チップ設計センターを設立しました。インテルが国外に拠点を置いたのは、これが初めてのことでした。

イスラエルに戻ってからは、ヘブライ大学応用科学部で教鞭をとる傍ら、インテルのコンサルタントとしても活動しました。1985年、インテル初の国外半導体工場をエルサレムに設立することについてイスラエル政府と交渉した後、ヘブライ大学の職を辞してインテル・イスラエルのジェネラル・マネージャーに就任しました。

1990年、イラクとアメリカ主導の多国籍軍によって湾岸戦争が勃発。その影響でイラクがイスラエルを攻撃すると、イスラエルの民間防衛当局は不要不急の事業を全て閉鎖するように勧告しました。しかしフローマンは、この勧告を無視してインテル・イスラエルの事業活動を続けました。戦争中も営業を続けた企業は数少なく、製造業においては唯一の企業でした。

そんな時代を耐え抜き、今も存続しているインテルは世界中の誰もが知る大手企業となりました。現在、インテル・イスラエルはワイヤレス技術のグローバル研究開発の本部であり、ノートPCやICチップの製造でインテルの事業に欠かせない拠点となっています。

フローマンは2001年にインテルを退職しましたが、彼の成した偉業は今後も語り継がれていくでしょう。

今回は、インテル・イスラエル社の創設者ドブ・フローマンの生涯を振り返りました。戦争のせいで過酷な幼少期を過ごした過去を持ちながら、その才覚を人のために使った彼の功績は素晴らしいものだと思います。インテルは現在も事業活動を続けており、多くの人々に愛されています。今後どのような新しい発明をしてくれるのか、非常に楽しみですね。

アーカイブ