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【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくり®ヒストリー 液体燃料ロケットの発明家 アルトゥール・ルドルフ(V2ロケットやサターンVの開発に携わったが戦争犯罪でアメリカから追放された発明家)

2024.04.22

AKI

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。V2ロケットは、第二次世界大戦中にドイツ軍が開発した軍事用液体燃料ロケットです。1927年、ドイツでは宇宙旅行を実現するための研究を行うドイツ宇宙旅行協会が結成されました。液体燃料ロケットの開発に成功すれば、人間を乗せて宇宙への旅が可能になると考えてのものです。しかし、ロケットが持つ可能性は人類をロマンの旅へと連れていくものばかりではありませんでした。第二次世界大戦中のドイツには、共和政体としてのヴァイマル共和国が作られていました。当時はヴェルサイユ条約により大型兵器の開発が禁止されていましたが、ナチス・ドイツが液体燃料ロケットの長距離攻撃兵器としての転用を試みました。このロケットの開発に大きく関与したのが、ドイツ出身の技術者だったアルトゥール・ルドルフです。彼はV2ロケットの開発のほか、アポロ計画で使用されたサターンVの開発にも携わりました。今回はそんなアルトゥール・ルドルフの生涯を振り返っていきましょう。

 

アルトゥール・ルドルフの前半生(ヴェルナー・フォン・ブラウンと一緒にロケットの開発をする)

アルトゥール・ルドルフは、ドイツ帝国のマイニンゲンで生まれました。由緒ある農家の家系に生まれたルドルフは、技師としての才能を発揮しました。母親はルドルフを機械技師として育てることを決意し、1921年からシュマルカルデンの技術学校に通わせました。ルドルフの修行は3年間におよび、卒業後はブレーメンの銀製品工場に就職しました。

1927年から、ルドルフは数々の製造会社を転々とします。ロケット開発に興味を持ち始めたのは、1930年に転職したハイラント・ヴェルケでのマックス・ヴァリエとの出会いがきっかけでした。ルドルフとヴァリエは共同でロケットの開発にあたりましたが、実験中に爆発事故が起き、ヴァリエは命を落とします。この事故がきっかけで同社ではロケットの研究が一時的に禁止されましたが、ルドルフは仲間を作って密かに研究を続けました。ヴァリエのエンジンに不足していた安定性をより高めることで、安全にロケットを飛ばす方法を確立しました。この成果を研究室の博士であるハイラントに提示すると、ようやくロケット研究の継続が正式に認められました。ハイラントはロケット研究への支援を約束し、さらに会社の設立にも許可を出しました。当時の成果物はテンペルホーフ飛行場で展示されました。ルドルフの研究成果は技術的には大きな成功とされていましたが、ロケットを動かすためには膨大な量の燃料が必要であり、それらすべてを入場料だけで賄うことはできなかったため、一般展示はすぐに終了してしまいました。1931年、ルドルフはナチ党に入党し、突撃隊にも参加しました。

ルドルフはその後、宇宙旅行協会の会合に出席しました。そこでのちのロケット開発の第一人者となるヴェルナー・フォン・ブラウンと出会いました。やがてルドルフはブラウンのもとで働くことになり、ロケットエンジンの開発に従事しました。ロケットの発射実験に成功したのは、1934年のことです。このロケットはのちにV2ロケットとして知られるようになります。

 

アルトゥール・ルドルフの後半生(米軍に保護されてNASAでサターンVを開発する)

第二次世界大戦が始まると、ルドルフが在籍していたペーネミュンデ研究所はイギリス空軍の爆撃を受けました。V2ロケットの製造はノルトハウゼンの付近に移され、ルドルフはV2ロケット製造の責任者に任命されました。しかし、ロケットが実際に生産されたのは4基にとどまり、そのすべてが不良品としてペーネミュンデから返却されました。

1945年、ドイツ軍の戦況は厳しいものとなっていきました。ロケットの製造も部品不足により停止し、ルドルフは数人の部下と共にオーバーアマガウに避難しました。ブラウンも同時期にペーネミュンデから退避しており、合流した彼らはアメリカ陸軍への投降を選びました。

アメリカでは軍からの保護を受け、ロケット開発に関わることで協力していきました。ドイツからの連行後、フォート・ストロングでの聴取のあと、ルドルフを含む技師グループはホワイトサンズ性能試験場でV2ロケットに関する解説を行いました。ドイツ人技師の技術力の高さを目の当たりにしたアメリカは彼らに永住権を与えました。

1960年、ブラウンの研究班はNASAへ移り、ルドルフは陸軍弾道ミサイル局に残りました。翌年、ルドルフもNASAに加わり、ブラウンとともにロケット開発に取り組みました。綿密な計画の末、完成したのがサターンVロケットです。サターンVはアポロ11号として月面に送られ、世界初の月面着陸に成功したことで知られています。

偉大な功績の裏側では、立場を危うくする出来事も起きていました。1970年、アメリカ合衆国司法省特別捜査局(OSI)の職員だったイーライ・ローゼンバウムは、ナチス・ドイツのロケット計画を調査していました。そのとき、読んでいた本の中にルドルフの名前を発見します。これはルドルフが囚人の強制労働に関与していたことを示す証拠となりました。これがきっかけとなり、ルドルフはアメリカ国籍を失い、国外への移住を余儀なくされました。妻と娘の市民権は残されることになりましたが、娘はアメリカに残り、妻はルドルフとともに移住することを選びました。ルドルフは戦争犯罪への関与が疑われていたため、起訴されかけましたが、最終的には不起訴処分となり、無事にドイツの市民権を獲得しました。

ドイツとアメリカを取り巻く微妙な関係性は改善の兆しを見せず、ルドルフの行動は制限されていました。アメリカに残った娘に会うためにカナダを訪れた際、ルドルフはOSIによる勾留を受けました。釈放後は自発的にカナダを出国しました。ルドルフはその後アメリカ合衆国市民権の再取得を目指しましたが、この訴えは棄却されました。

ルドルフは、西ドイツへの移住後まもなくして心疾患を患いました。心臓発作を起こし、大手術の末に一命を取り留めましたが、容体は改善しませんでした。1996年、心不全によってハンブルグでその生涯を終えました。

今回は、ロケット開発に関与したアルトゥール・ルドルフの生涯を振り返りました。高い技術力を存分に発揮した一方で、戦争によって翻弄された人生でした。住む国を失い、一度は戦争犯罪の罪に問われかけた彼の人生は心休まるものではなかったでしょう。しかし、彼の発明によって人類の科学が前身したことも事実です。アポロ11号計画に使用されたサターンVのような大発明を行ったことは、人類の財産といえるでしょう。人類初の月面着陸の裏側には、壮大なドラマがあったのです。

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