【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくり®ヒストリー ハンググライダーの発明家 オットー・リリエンタール(ハンググライダーの飛行実験に成功するが墜落して死亡した悲劇の発明家)
2024.04.19
AKI
私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。ハンググライダーは、人間がぶら下がり滑空するための機体そのもの、またはそれを用いたスカイスポーツの名称です。最初にハンググライダーを考案したのは、イギリスの工学者だったジョージ・ケイリーです。彼は20年以上にわたって鳥の飛び方を観察し、それを人間が飛行するための仕組みとして実現しました。そして、ジョージ・ケイリーの実験結果を引き継ぎ、実際に飛行を成功させた実績で知られるのが、ドイツのオットー・リリエンタールです。リリエンタールがハンググライダーで滑空する様子はさまざまな雑誌や新聞で取り上げられ、有人飛行の可能性を世の中に広く知らしめました。当時の写真は、のちに飛行機の発明で知られるライト兄弟が空の世界に足を踏み入れるきっかけとなったことでも知られています。今回はそんな、オットー・リリエンタールの生涯を振り返っていきましょう。
オットー・リリエンタールの前半生(子供の頃から航空技術の研究に没頭する)
オットー・リリエンタールは、1848年プロイセン王国ポメラニア地方アンクラムで生まれました。ユダヤ系の家系であり、オットーの他に7人のきょうだいがいましたが、成人したのはオットーを含めた3人のみでした。その中の1人、グスタフは生涯にわたってオットーとともに飛行の研究を行ったパートナーでもあります。
幼い頃のオットーは、冒険心豊かで活発な性格をしていました。父親とは早くに死別し、母親が教師がわりとなってオットーとグスタフに教養を蓄えさせました。やがて2人が大きくなると、母親は高等学校に進学させ、勉学の機会を与えました。オットーとグスタフは高等学校に入ると、小さい頃から心奪われていた航空技術の研究に没頭しました。オットーは13歳のとき、オットーは木の骨と麻布を使ってハンググライダーを作り、丘の上を駆け回りました。1867年から1870年までは、ベルリン工科アカデミーに通い、力学を学びました。1870年に普仏戦争が始まると、オットーはドイツ軍に従軍しました。1871年、普仏戦争はプロイセンの圧勝で幕を閉じ、オットーは航空の研究に再び没頭しました。航空機にはさらに改良を重ね、2000回以上に及ぶ飛行実験を行いました。
オットー・リリエンタールの後半生(ハンググライダーの飛行実験に成功するが墜落して死亡する)
オットーの有人飛行実験は、6年ほどにわたって行われました。ハンググライダー以外にも、単葉機やオーニソプター、複葉機などさまざまな航空機を開発しました。それぞれの機体は、安定した飛行を実現するために重量を均等に分散するように設計されていました。ハンググライダーのように操縦者の体重移動で空中姿勢を保つのがこれらの機体の乗り方でしたが、肩に翼を固定する設計上、重心の移動が制限されてしまい失速してから再び加速することは困難でした。
オットーが最初に実験を行ったのは、ベルリン郊外のシュテーグリッツにある小高い丘の上です。丘の上には4mの高さの古屋を立て、発射台かつグライダーの保管場所として活用しました。1884年には自宅の付近に円錐型の丘を作り、飛行実験場としました。円錐形に整地したのは、全方向から風が吹いていても飛行実験を行えるようにするためです。
オットーの飛行実験は、世界中で報道されました。滑空の様子は報道各社の写真に収められ、さまざまな出版物に掲載されました。このとき、実際に飛行した距離は25m程度でした。オットーは自ら写真家に指示を出し、ベストポジションで写真に映るように調整を行っていました。毎秒10mの向かい風の中をあえて飛行し、上昇気流に乗ることで飛行距離を伸ばしていきました。1893年には250mもの長距離飛行にも成功しています。この記録はオットーが亡くなるまで誰にも破られることはありませんでした。
世界的な話題をさらったオットーですが、その生涯は道なかばで途絶えることになります。1896年、オットーはその日も前週と同様に飛行実験を行うため、リノウの丘に向かいました。最初の飛行はグライダーを使って、250mの距離を飛行しました。4回目の飛行中、体勢を崩したグライダーは急激に失速し、揚力を失ってしまいます。オットーは体勢を立て直すことができず、約15mの高さから墜落しました。オットーは病院に運び込まれましたが、頚椎の損傷によりあえなく死亡しました。駆けつけたグスタフに対して、「犠牲は払われなければならない」という最期の言葉を残し、彼はこの世を去りました。オットーの死後、遺体はルリンの公共墓地に埋葬されました。
48歳の若さで亡くなったオットーの悔しさは計り知れませんが、彼が後世に残した影響は非常に大きなものでした。のちに有人飛行機の最初の成功者として世界中に名前が知られることになるライト兄弟も、オットーの飛行実験を参考にして飛行機を作ったとされています。
今回は、航空技術のパイオニアとして名を残したオットー・リリエンタールの生涯を振り返りました。数々の飛行実験を行い、世界中の人々に有人飛行の可能性に期待を抱かせ、前途ある若者に大きな影響を及ぼした功績は讃えられるべきものではないでしょうか。若くしてこの世を去ったことは残念ですが、滑空の過程で命を落としたことは本望だったのかもしれません。