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【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくり®ヒストリー レコード蓄音機の発明家 エミール・ベルリナー(RCAレコード+EMI+ドイツ・グラモフォンのもとになるレコード会社の創業者)

2024.03.18

AKI

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。蓄音機は、レコードの溝に針を接触させ、発生した音を録音するための装置です。この仕組みを利用して、レコード蓄音機は電話機として使用されました。音を発生させて録音する機構は画期的なもので、リアルタイムで音声を出力する現在の電話が台頭するまで多くの人々に使われました。レコード蓄音機を発明したのは、ドイツ出身ながらアメリカで人生の大部分を過ごしたエミール・ベルリナーです。グラハム・ベルが電話特許を取得する際、エジソンとの競争に勝つために貢献しました。今回はそんな、エミール・ベルリナーの生涯を振り返っていきましょう。

エミール・ベルリナーの前半生(グラハムベルの電話機を改良して特許を取る)

エミール・ベルリナーは、1851年、ハノーファーで生まれました。父親はユダヤ系の商人であり、母親はアマチュアの音楽家として活動していました。14歳まで学校に通い、卒業後は家族で生地屋として働いていましたが、普仏戦争が始まると兵役から逃れるために、1870年にアメリカに移住しました。

移住後も洋服屋として働いていましたが、ベルリナーはエレクトロニクスに対しても興味を持っていました。ベルリナーはクーパー・ユニオンの物理学と電気工学の講義に出席し、エレクトロニクスに関する勉強を行いました。その後はいくつかの会社に就職して実務経験を積み、技術を高めていきました。やがてグラハム・ベルの電話機が話題になると、その技術に魅了されたベルリナーは電話機の改良案を発明し、特許を取得しました。

ベルリナーの改良案は、グラハム・ベルにとっても渡りに船でした。電話機の発明を確定する段階にありながら、エジソンの特許に抵触する可能性を危惧していたベルは回避するための方法を探していました。ベルリナーの改良案はベルの耳に入り、ベルをはじめとした電話機の開発チームはベルリナーを技師として雇うことを決めました。この甲斐あって、1876年にエジソンとの特許争いに勝利を収めました。これに対する反撃として、エジソンは1877年にフォノグラフをマスコミに発表しました。発表当初は「話す機械」として噂され、大いに評判を読んだものの、前評判のわりには性能が低く、実用化には至りませんでした。グラハム・ベル率いる開発チームは蓄音機の実用化に向け、録音と再生の針を別々にしたり、保存の効かないスズ箔をワックス塗りに変えたり、再生にゴム管を使い音声が明瞭に聞こえるようにしたりするなどといった改良を加え、1885年には完全に実用に徹した「グラフォフォン」を誕生させました。

エミール・ベルリナーの後半生(レコードプレーヤーの原型となる円盤式蓄音機「グラモフォン」を発明する)

ベルリナーは、1881年にアメリカの市民権を獲得しました。1884年になると、ベルリナーはベルの研究所を離れ、独自の蓄音機を開発する道に進みました。その後、1887年にはのちにレコードプレーヤーの原型となる円盤式蓄音機「グラモフォン」を作りました。このグラモフォンの販売のために、1895年には「ベルリーナ・グラモフォン」という会社を設立します。ビクタートーキングマシンを経てRCAレコードとなり、また、英国支店はグラモフォン・カンパニーを経てEMIへ、さらに、ドイツにおいてはドイツ・グラモフォンと、音楽業界に大きな影響を与える企業の源流となっています。

1929年、ベルリナーは心臓発作で死亡しました。

今回は、レコード蓄音機を発明したエミール・ベルリナーの生涯を振り返りました。グラハム・ベルの電話機といえば歴史に残る出来事として有名ですが、その背景にはベルリナーの貢献がありました。偉大な発明の裏には、意外な人物の助力があることも少なくありません。こうした裏側を知っておくと、歴史を知ることがもっと楽しくなるでしょう。

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