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【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくり®ヒストリー ブラウン管の発明家 フェルディナント・ブラウン(第一次世界大戦中にアメリカに抑留されて帰国できずに亡くなった悲劇の発明家)

2024.02.23

AKI

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。お茶の間を賑やかせる家電のひとつ、テレビにも長い歴史があります。現代は完全に液晶テレビに移行していますが、日本にテレビが登場したとき、使用されていたのは「ブラウン管」でした。ブラウン管テレビは一般市民からすると非常に高価なものであり、ブラウン管テレビを持っている家庭は羨望のまなざしでみられていた時代もありました。このブラウン管を発明した人物が、ドイツの物理学者だったフェルディナント・ブラウンです。電気工学に関する研究を行った彼は、自身の名を冠する「ブラウン管」の技術を発明し、確立しました。今回はそんな、フェルディナント・ブラウンの生涯を振り返っていきましょう。

フェルディナント・ブラウンの前半生(ベルリン大学で博士号を取得してブラウン管を発明する)

フェルディナント・ブラウンは、ドイツ中部の都市であるフルダで生まれました。当初はマールブルク大学に通い、その後ベルリン大学に移って博士号を取得しました。ブラウンの研究は弦や弾性体の振動に関するものが大多数ですが、一部熱力学に関する研究も行っていました。

ブラウンの功績として語られるのは、電気工学に関する発明です。完成した発明品は彼の名をとって「ブラウン管」と呼ばれることになります。

最初にブラウン管が発明されたのは、1897年の出来事です。完成したブラウン管を用いて、オシロスコープ(電気信号をグラフとして表示する機器)を製作しました。この発見は多くの人々に衝撃を与え、全世界に一大テレビブームを巻き起こしました。この時代は無線通信が登場しはじめたころであり、人々の関心も高かったことがうかがえます。離れた場所にいる人と音声で通話をしたり、映像を届けたりする技術が確立されれば、非常にさまざまな分野の研究が加速します。そんな期待感の中で発明されたブラウン管は、期待以上の成果を伴って人々の前に現れました。

この時期、ブラウンは無線電信の研究に専念していました。もともと電気工学に興味があり、得意な分野だったため、時代の流れに合わせてブラウンも研究のフィールドを選びました。1989年ごろには鉱石検波器(ダイオード)を発明しましたが、ブラウンは特許を取得しませんでした。そのほかにも、高周波電流によって水中でモールス信号を送る実験や、電波に指向性を持たせて発信・受信の実験を行うなど、無線電信についての実験を数多く行いました。

フェルディナント・ブラウンの後半生(第一次世界大戦中にアメリカに抑留されて帰国できずに亡くなる)

ブラウン管の発明以降、およそ100年にわたってテレビやコンピュータなどの映像装置として広く使われ続けました。現在使用されている液晶ディスプレイや発光ダイオード、プラズマディスプレイなどの装置は2000年代になってようやく登場した技術です。今私たちが当たり前のように使っているテレビも、数年前に地上波放送に切り替わったのは記憶に新しいのではないでしょうか。そのくらい、ブラウン管の発明は当時の技術では革新的なものでした。

しかしブラウンの生涯は、その後苦境に立たされます。第一次世界大戦がはじまり、自由な行動を取れなくなってしまったのです。ヨーロッパが主戦場となったこの戦争では、当初アメリカは参戦していませんでした。ブラウンは開戦後、ニューヨークを訪れました。ニューヨークのセイビルにドイツが設立した無線局があり、それをイギリスの支配下にあるマルコーニ社から守るためです。ブラウンのニューヨーク滞在中にアメリカが参戦し、ブラウンはブルックリン区内のみに行動を制限されてしまいます。1918年、第一次世界大戦の終結前にブラウンはこの世を去りました。

今回は、ブラウン管の発明者であるフェルディナント・ブラウンの生涯を振り返りました。当時の技術力では考えつかないほどのアイデアで、その後100年にわたって使われ続けるブラウン管を発明した功績は素晴らしいものだと思います。しかし大きな戦争に巻き込まれ、本意でないままに亡くなってしまったことは残念でなりません。テレビにも、こんな歴史があることを知ると、より面白く感じられますね。

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