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【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくり®ヒストリー レーダーの発明家 クリスティアン・ヒュルスマイヤー(レーダーの実用化に取り組むが失敗して廃業した可哀想な発明家)

2024.02.16

AKI

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。レーダーを活用する技術が確立されたのは、18世紀ごろのことでした。長い時間をかけて研究されたレーダー技術は、気象の予測や乗り物どうしの通信などに活用されています。近代レーダー技術を発明した人物が、ドイツの発明家であるクリスティアン・ヒュルスマイヤーです。若くして才能を認められたヒュルスマイヤーは、発明の世界に飛び込み、その力をいかんなく発揮しました。今回はそんな、クリスティアン・ヒュルスマイヤーの生涯を振り返っていきましょう。

クリスティアン・ヒュルスマイヤーの前半生(レーダーの原理を思いつき、実用化のためにシーメンス社で修行する)

クリスティアン・ヒュルスマイヤーは、ドイツのアイデルシュテットという村で生まれました。5人兄弟の末っ子であり、村の学校に通いました。幼いころから優秀だったヒュルスマイヤーは学校の教師に才能を認められ、1896年からはブレーメンの教員養成所で勉学に励むことになります。

ヒュルスマイヤーの人生にとって、養成所での体験は大きな転換点となりました。もともと物理学に興味のあったヒュルスマイヤーは、ハインリヒ・ヘルツの電磁波の研究にも深い関心を持っていました。教員養成所の物理室で反射鏡の実験をしているとき、レーダー技術を発展させる画期的なアイデアをひらめきました。その内容は、送信機から発した電磁波が金属表面で反射して戻ってくることを利用して、遠くの金属物体の探知が可能というものです。この方法を使えば、船や列車などが遠い場所にいても正確に位置を把握できるようになります。遠方とリアルタイムで通信ができるようになったことで、よりスムーズな輸送環境の構築に貢献しました。

1899年、ヒュルスマイヤーは学校を中退し、ブレーメンのシーメンス社で見習いとして修行をはじめました。自身が発明した機構をどのように実装するのか、理論的にも実力的にも不十分だったため、実地経験を積むことでその後に役立てようとしたのです。シーメンス社の研究はヒュルスマイヤーが将来やりたいことと関連があったため、そこで作られる装置がどのようなプロセスで実用化されているのかを学びました。高いレベルの技術を目の当たりにすることで、ヒュルスマイヤーは発明家としての実力を伸ばしていきました。

クリスティアン・ヒュルスマイヤーの後半生(独立開業してレーダーの実用化に取り組むが失敗して廃業する)

3年の修行を経て、ヒュルスマイヤーはシーメンス社を退職しました。退職後はデュッセルドルフに住む兄と同居し、電気・光学製品についての企画・開発を行いました。当初は兄からの資金援助を受け、思いついたアイデアを次々に実用化していきました。いくつか発明の例を挙げると、「音を電送する装置(テレフォノグラム)」「トラックを移動式の多面看板にする電気光学システム」「爆発物を遠隔操作で点火する無線装置」などがありました。これらの発明品について、1903年に特許を取得しました。これを足がかりにさらなる資金提供者を募り、事業の発展に生かそうと行動していきました。募集を募ってから1年足らずで、ケルンの皮商人と金融業を営んでいたハインリッヒ・マンハイムからの出資を獲得し、発明を行うための潤沢な資金を確保することに成功しました。同年、ヒュルスマイヤーは5000ライヒスマルクを創業資金として「テレモビロスコープ・ゲゼルシャフト・ヒュルスマイヤー&マンハイム社」を設立。ケルンで正式に登記されました。

その後も数多くの発明品を生み出し、マンハイム社は製造関連のトップとしての地位を確立しました。レーダーに関する発明の中で、「テレモビスコープ」の発明は非常に有名です。この発明は設計段階こそ大きな期待を抱かせるものでしたが、実用化する前段階で失敗を繰り返し、結局形にならなかったという歴史を持っています。原理自体が誤りであると証明されたため、その後はこの装置に関する研究は行われないだろう、と指摘する声も上がっていました。失敗の原因にはいくつかの可能性が考えられましたが、主に機器設計の不備や競合他社の妨害が原因とされています。設計当初の無線技術は、混在していない状態での通信を想定しており、周波数を切り替えて独立した通信環境を確保するための回路を含んではいませんでした。1904年の実用化段階では、すでにヨーロッパ周辺の船舶や陸上局に多数の無線機が設置され、混信のせいで予定通りの動作ができなかったのです。この失敗により多くの資金を失ったマンハイム社の経営は、少しずつ傾いていきました。やがてヒュルマイヤーは、ケルン王立裁判所の会社登記簿からの除名を決めました。

時間の経過とともに、ヒュルスマイヤーの名前は人々の記憶から薄れていきましたが、再びその名前が思い起こされるようになったのは、第二次世界大戦後にレーダー技術が重要視されるようになった頃のことです。ヒュルスマイヤーはすでに経営の前線を離れた後でしたが、多くの発明家・研究者が彼の考えを参考に研究を行いました。これによりヒュルスマイヤーは再評価され、後世に名を残す人物となりました。

1957年、ヒュルスマイヤーはアールヴァイラーで逝去し、デュッセルドルフの北墓地に眠りました。

今回は、ドイツの発明家であるクリスティアン・ヒュルスマイヤーの生涯を振り返りました。レーダー技術は今では産業に欠かせない技術です。そんなレーダー技術を発展させ、私たちの生活を豊かにした彼の業績は非常に大きなものだといえるでしょう。目に見えることのない部分にも、先人たちの偉大な発明が使われています。それを意識してみると、また新しい発見があるのかもしれませんね。

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