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【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくり®ヒストリー ケプラーの法則を発見した ヨハネス・ケプラー(惑星の運動に関する法則を解き明かして地動説の正しさを立証した天文学者)

2024.01.05

AKI

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。天体の動き方については、古くから研究が行われてきました。「星の見える位置がなぜ時間によって変わるのか」は多くの科学者たちが解き明かそうとしたテーマであり、中世の時代では大きな疑問のひとつでした。現代でこそ研究が進み、地球が天体のひとつであること、惑星はいずれも周期的な運動をしていることが明らかになりましたが、かつての人々は天動説を信じていました。科学者のガリレオ・ガリレイが地動説を支持したことで処刑されたエピソードを知っている方も多いでしょう。そんな中、惑星の運動に法則を見出した人物がいます。ドイツの天文学者・ヨハネス・ケプラーです。彼が発見した法則は「ケプラーの法則」と呼ばれ、天文学の研究を大きく前進させるきっかけとなりました。今回はそんな、ヨハネス・ケプラーの生涯を振り返っていきましょう。

ヨハネス・ケプラーの前半生(数学と天文学の教師になるが、地動説を唱えてクビになる)

ヨハネス・ケプラーは、1571年、神聖ローマ帝国の自由都市ヴァイル・デア・シュタットで生まれました。父親は酒屋を営み、母親は宿屋の娘として生まれ、薬草を用いて医療行為をしていたことでも知られています。ケプラーには2人の兄と1人の姉がおり、4人きょうだいの末っ子として生まれました。ケプラー一家の生活は貧しく、生計を立てるのは困難な状況にありました。父親は収入を得るために傭兵となり、家族の元を離れました。

ケプラーの人生は、幼い頃から苦悩の連続でした。4歳のときに罹患した天然痘によって視力の低下、手の障害などを抱えたことに加え、宗教的対立によって厳しい身分に立たされていたのです。

しかし、ケプラーには突出した学問の才能がありました。奨学金をもらいながら教育課程を履修し、やがて大学に進学することになります。特に数学分野で優れた成績を残し、周囲を驚かせました。ケプラーは当初牧師になることを望んでいましたが、学生仲間や教師からプロテスタント系の数学・天文学の教師を薦められると、その助言を受け入れました。

1594年に大学を卒業すると、そのまま同校で数学と天文学の教師に就職しました。当時出版した「宇宙の神秘」という書籍の中で、ケプラーはコペルニクスの提唱した地動説を支持する考えを示しました。ガリレオ・ガリレイもこの書を読み、ケプラーに称賛の手紙を送りました。天動説が主流であった当時の神聖ローマ帝国で、全面的に地動説を支持したのはケプラーが初めてでした。しかしこれがきっかけとなり、グラーツを統治していたオーストリア大公フェルディナント2世によってグラーツからの退去を命じられ、ケプラーは職を失うこととなります。

ヨハネス・ケプラーの後半生(ティコの残した観測データを用いて「ケプラーの法則」を発見する)

1599年、ケプラーはプラハを訪れます。現地の研究者であるティコ・ブラーエに招かれ、共同で研究を行うことになったのです。ティコの研究室にある観測データは、当時の技術力では最高の精度を誇っていました。ティコは地動説を提唱していましたが、それを証明する有力なデータを集めることができずにいました。それから1年半後、ティコは志半ばで最期を迎えます。ケプラーは遺言で観測資料の整理を任され、ティコが残した膨大な数のデータに触れることとなったのです。このデータによって、ケプラーは地動説を証拠づける確かな情報を手にしました。

ティコの没後、ケプラーはルドルフ2世に宮廷付星術師として付き従うこととなります。ティコの残した観測データを用いて、研究を続けました。1609年、『新天文学』という論文の中で惑星の運動に関する法則を発表しました。この法則は「ケプラーの法則」と呼ばれるようになり、天動説が覆る要因となりました。天体の動きを忠実に再現するこの法則は、天文学の研究を大きく進めるきっかけとなり天文学の研究にも役立てられました。

しかしそんなケプラーに悲劇が訪れます。1611年、妻のバルバラと3人の子どものうちの1人が天然痘によって亡くなってしまったのです。1613年に再婚するとそれから6年後の1619年に『宇宙の調和』を出版します。翌年、母親が魔女裁判にかけられたことを理由に故郷ュルテンベルグに戻ると、それからは裁判と母親の弁護に奔走しました。

1621年に無罪判決を勝ち取るとリンツへと帰還しましたが、1626年には反乱軍によってリンツが被害を受けることに。それからはウルムへと移り、ここで1627年にはルドルフ表を完成させました。3年後の1630年、ケプラーの慌ただしい人生は幕を下ろしました。

今回は、惑星の運動に関する法則「ケプラーの法則」を見つけ出したヨハネス・ケプラーの生涯を振り返りました。天動説が支持され、異なる価値観を持っていた人間は異教徒とみなされる当時の神聖ローマ帝国で地動説を支持したのは勇気のいる決断だったのではないでしょうか。病気や貧困、宗教的対立に苦しめられた人生でしたが、逆境の中でも人類の進歩に貢献したことへの感謝は忘れずにいたいものです。

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