私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。飛行機の歴史を辿ると、多くの人はライト兄弟を思い浮かべるのではないでしょうか。世界初の有人飛行に成功し、現代に到る航空学の礎を築いた彼の功績は、確かに後世に語り継がれるべき偉業です。しかし、そんな彼らも最初から問題なく研究を進められていたわけではありません。苦難の末にようやくたどり着いたのが有人飛行を可能にした飛行機の設計だったのです。そんなライト兄弟に大きな影響を与えた人物こそ、フランスの航空学者として活躍したアルフォンス・ぺノーです。イギリスのジョージ・ケイリー卿と並んで、近代航空学の基礎を作り上げた人物として知られています。彼の評価は今でこそ高いものの、存命中は実機のクオリティを認められず、若くして自死を選ぶという悲しい末路を辿った人物でもあります。今回はそんな、アルフォンス・ぺノーの生涯を振り返っていきましょう。
アルフォンス・ぺノーの前半生(障害のため軍人になれず航空学の研究者になる)
アルフォンス・ぺノーは、1850年に生まれました。海軍提督の息子として生まれ、将来を嘱望されていたものの、生まれ持った坐骨疾患のために下肢を十分に動かすことができず、軍務につくことはありませんでした。
ぺノーは軍に入らず、航空学の研究を行いました。代表的な発明品は、プラノフォア機とヘリコプター、そして実機である水陸両用機です。
プラノフォア(模型)
プラノフォアは今日のものとほぼ同様な、ゴム動力の模型飛行機です。主翼、尾翼、推進装置という動力機の基本的な要素を全て備えていました。主翼は単葉の固定翼で平面形はやや先細り、安定性を得るために上反角を持つことが特徴です。尾翼は胴体に対して負の取り付け角を持った水平尾翼を搭載。そして推進装置はねじったゴム紐を動力とする2枚羽のプロペラで、これは機体の尾部に取り付けられていました。1871年にパリで公開飛行に供されました。
ペノーのヘリコプター(模型)
ペノーのヘリコプターは、1870年に製作されました。動力式の竹とんぼとでも言うべき構造のモデルで、こちらも現代の模型に同様のものが見られます。上下2つのローター(ピッチは反対になっている)とそれをつなぐ胴体、そして動力部から成り、上部のローターが回ると反作用で下部のローターが逆向きに回り、両者が揚力を発生して浮揚するという仕組みでした。
水陸両用機(実機・・・ただし失敗・・・)
実機としては、1876年に特許を申請した二人乗りの水陸両用機を発明しました。垂直尾翼に水平尾翼、可動式の操縦尾翼を取り付けていました。先鋭的な機能が多く搭載され、引き込み脚やスポイラー、上面の膨らんだ翼型など、それまでにない真新しい設計がふんだんに盛り込まれていました。
しかしぺノーは、この設計を実現するために十分な資金を用意することができませんでした。エンジンも設計に耐えうる強度のものは開発されておらず、資金面・機能面から実機の発明は砂上の楼閣となりました。
アルフォンス・ぺノーの後半生(発明が玩具としてしか実用化されず自殺する)
しかし、実際の発明に至らなかったとはいえ、他の研究者に与えた影響は大きなものでした。ぺノー式のヘリコプターは玩具として発売され、子どもたちのもとへと渡りました。子どもたちの中には、その後有人飛行を成功させ、航空学を大いに発展させるライト兄弟も含まれていました。当時はヘリコプターどころか飛行機も発明されていなかったため、ライト兄弟はこの玩具を「コウモリのおもちゃ」として買い与えられました。彼らが空の世界に興味を持ったのは、この時の経験があったからかもしれません。
小さな子どもたちに将来の夢を与えた一方で、ぺノー自身は苦境に立たされていました。発明が成功しないままでは収入を得ることができず、自身のキャリアも育てることができません。その苦しみからついに逃れることができず、ぺノーは自ら命を断つことを選びました。
今回はフランスの航空学者・アルフォンス・ぺノーの生涯を振り返りました。飛行機の設計にかなりの才覚があったにもかかわらず、成功に至らないまま自死を選んでしまったことは残念でなりません。彼の評価が高くなり始めたのは、航空学の歴史の研究が進んでからのことでした。偉大な発明の影には、世に出ることのなかった隠れた天才たちの苦悩も存在します。スポットライトを浴びている部分だけではなく、その裏にある人たちの努力や困難にも目を向ける意識が大切なのかもしれませんね。