ブログ

【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくり®ヒストリー 蒸気機関の発明家 ドニ・パパン(フランス、イタリア、ドイツ、イギリスを転々として偉大な発明をするが報われなかった可哀想な発明家)

2023.09.25

AKI

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。中世の発明でもっとも大きなものといえば、蒸気機関です。蒸気機関の発明は産業革命が起こったイギリスをイメージする人も多いと思いますが、ヨーロッパ全体でも産業を発展させる動きは活発になっていました。実際にモノとして発明するには、その原理をよく知っておかなくてはなりません。先人の研究の結果を受けて、発明家たちはより便利なものにしようと、自信の持てる力をつぎ込んで研究を行っていくのです。そんな最初の発明とも言える原理の解明をした人物こそ、フランスの物理学者ドニ・パパンです。彼は蒸気機関の原理を発明し、ロンドンの王立協会フェローに選出された偉大な人物です。蒸気機関のほかにも様々な発明を行ったパパンの功績は、現在でも讃えられています。今回はそんな、ドニ・パパンの生涯を振り返っていきましょう。

ドニ・パパンの前半生(医師を辞めて研究者になり安全弁を発明する)

ドニ・パパンは、1647年、フランス中部 ロワール・エ・シェール県のブロワ近郊のシトネで生まれました。10人兄弟の4番目で長男として生まれたパパンは、両親からの期待を背負って勉強に励みました。6歳の頃に伯父と暮らすようになり、ソミュールのユグノー・アカデミーに通学。1661年からはアンジェの大学で医学を学び、1669年に医学の学位を取得しました。大学卒業後はパリに赴き、医者として活動しましたが、彼の興味は医学よりも数学や理学といった領域に向いていました。翌年には医者を辞め、パリに在住していたクリスティアーン・ホイヘンスの助手となってたくさんの実験を行いました。この時行った実験は実に多様で、空気ポンプをはじめとする器具を使って空気や気圧、真空状態などを研究していきました。実験の結果は書籍として出版され、その名が広く知られるようになります。

パパンは、1675年にロンドンへ渡りました。翌年1676年から、ロンドン王立協会でロバート・ボイルの助手として働くようになります。1679年からはロバート・フックの助手となり、水の沸騰温度と圧力の関係について新たな発見をしました。この仕組みを生かして、圧力調理具を発明。この圧力調理具には安全弁が取り付けられており、パパンは安全弁の開発者としても有名になります。1680年、ボイルやフックとの優れた研究の成果が評価され、晴れてロンドン王立協会フェローに選出されました。

1681年になると、パパンはイタリアを訪れました。そこではベニスの公立科学アカデミーの実験主任を務めました。王立協会はロンドンにしかなかったため、デニスでの王立協会を立ち上げようとしましたが、これは実現できませんでした。その後1684年にロンドンへ戻り、3年の間王立協会実験担当として留まりました。科学者としての地位を確立した一方で、ルイ14世によってナント勅令が廃止され、プロテスタントであったパパンは亡命者の身分となりました。

ドニ・パパンの後半生(シリンダとピストンを用いた蒸気機関を発明する)

1687年、ヘッセン=カッセル方伯の招聘により、パパンはドイツへと移住しました。そこではマールブルク大学で、数学の教授として働きました。パパン以外にもルイ14世の独裁から逃れたユグノーたちは大勢おり、彼らはお互いに交流を持っていました。

1688年、パパンは王立協会で蒸気機関の原型となる仕組みを発表します。これは火薬を用いてシリンダから排気を行い、ピストンの下部に真空部分を作り出すというものでした。実験の結果はシリンダ内に5分の1ほどの空気が残り、実際に得られたエネルギーは想定の半分に留まりました。火薬では十分なエネルギーを得ることができなかったため、この発表以降は蒸気を用いるようになりました。

その後は加圧ポンプとベローズを用いて、潜水鐘の内部に圧力を空気を保持できることを示しました。また、また、シリンダの中に真空を作り出して大気の力を利用しようとしていた彼は、 ダイジェスターでの経験をもとに蒸気を利用する方法に行き着きます。 1690年に、シリンダとピストンを用いた蒸気機関の模型を製作しました。 これはその後の蒸気機関の原理となりました。 彼は1696年にマールブルク大学を去り、 それ以降、ヘッセン=カッセル方伯領で働きました。

1707年に、パパンは家族をドイツに残し、ロンドンへと戻りました。1712年までの間、彼は王立協会へ何件か論文を提出したものの、出版はされませんでした。パパンがロンドンに戻った理由は、王立協会で再び職を得るためです。しかし、王立協会側も十分な資金を確保できておらず、パパンが王立協会に戻ることはありませんでした。パパンの再就職を阻んだ理由のひとつに、当時の会長だったアイザック・ニュートンの反対があったとされています。パパンはこの結果に強い不満を持ち、王立協会は正当な評価をしてくれないと批判しました。パパンの最後に関して残している記録はありませんが、ロンドンで貧窮のままに亡くなったとされています。

今回は蒸気機関の原理を発見したフランスの科学者、ドニ・パパンの生涯を振り返りました。科学者として王立協会フェローに選出された栄誉を持ちながら、フランス国政による亡命・貧困とその人生は華々しい部分ばかりではありませんでした。しかし、苦しい中でも研究を続け、人類の科学の発展に貢献したことは非常にありがたいことです。歴史の立役者として名を刻んだ彼のことを、今後も忘れないようにしていきたいですね。

アーカイブ