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【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】電子式テレビの発明家 フィロ・ファーンズワース(RCAとの特許紛争を乗り切って大富豪になるも、核融合の研究に私財を投じて破産して亡くなった可哀想な発明家)

2022.12.25

SKIP

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。私たちの生活に欠かすことのできない家電製品として上位に来るのがテレビではないでしょうか。重要なニュースを得る手段となったり、映画やバラエティ番組を観てリフレッシュしたりと毎日使用している方も多いでしょう。そんなテレビを発明したのがアメリカ人発明家のフィロ・テイラー・ファーンズワース(Philo Taylor Farnsworth)でした。ファーンズワースは世界で初めて電子式撮像管を開発し、完全電子式のテレビシステムの構築に成功した人物です。ファーンズワースが発明した電子式テレビは世界中へと普及し、その後の新たな発明が誕生するまでの20世紀後半まで全テレビに利用されてきました。そこで今回はテレビの基礎を作り上げてくれたアメリカ人発明家のフィロ・テイラー・ファーンズワースの生涯を振り返っていきましょう。

フィロ・ファーンズワースの生涯(幼少期から電子テレビシステムの開発まで)
1906年(昭和39年)、フィロ・ファーンズワースはアメリカ合衆国ユタ州のビーヴァーという街で誕生しました。しばらくしてファーンズワースは家族と一緒にアイダホ州のリグビーに引っ越しました。当時のアメリカの田舎ではまだ電力が供給されていない場所が多くあり、電力が供給されている地域自体が珍しい存在でした。ファーンズワースらが引っ越した先にはなんと電灯線が既に引かれており、それを見たファーンズワースは非常に興奮していたそうです。このとき電力は、照明と干し草を納屋に運ぶ機械に使用されていました。
幼いころから電力機器に興味を持っていたファーンズワースは、鉄の塊を導線でぐるぐる巻きにして電動モーターを作成するまででした。そして作った電動モーターを利用して、洗濯機を改造し電動洗濯機まで作り上げました。また、屋根裏部屋に放置されていた複数の技術雑誌を見つけ、それを読み込んだことからさらに電子工学に興味を持ち始めました。
ファーンズワースが通っていたリグビー・ハイスクールでは特に化学と物理学に対して高い才能をあらわにし、電子管のスケッチやプロトタイプを作りました。そして1923年(大正12年)、ファーンズワースはブリガムヤング大学(末日聖徒イエス・キリスト協会が運営するアメリカの名門私立大学)に進学することとなりました。
1926年(昭和元年)、ファーンズワースはアメリカ合衆国ソルトレイクシティで研究者のジョージ・エバーソンとテレビに関する共同研究を行うこととなりました。研究の環境を整えるためにロサンゼルスへと引っ越しました。数カ月間研究を継続して、電子工学や物理学に関して権威のある特許弁護士に実験を見せられるまでになっていました。
当時既に存在していたテレビはニプコー円盤と呼ばれる円盤を回転させる機械式の製品でした。一方で、ファーンズワースは回転する円盤で高品質な映像を実現するには、機械的に不可能な回転数が必要になることに気づきました。早い段階でこの事実を発見したことが効率的に高品質画像を生み出すことに成功することに繋がりました。
翌年の1927年(昭和2年)、ファーンズワースはイメージディセクタ撮像管を利用して映像を一本の線として送り出すことに成功しました。このとき撮影した画像はガラス製のスライドで、後方から光を照射していました。その後も研究を継続し、翌年の1928年(昭和3年)には報道各所に対して公開実験を実施できる内容にまで成長していました。
1929年(昭和4年)、電動発電機を排除する方法によりシステムが改良され、完全なる電子テレビシステムが完成しました。そしてこのときに人間の映像の転送に初めて成功しました。また、ファーンズワースは電子式テレビシステムに関する複数の特許を取得しました。

フィロ・ファーンズワースの生涯(特許紛争と晩年の発明)
ファーンズワースが電子テレビの開発実験に尽力していた頃、ロシア系アメリカ人発明家のウラジミール・ツヴォルキンも全電子式テレビシステムの開発研究を進めていました。ツヴォルキンは1923年(大正12年)から研究を開始し、1930年(昭和5年)にRCA(アメリカ合衆国のエレクトロニクス事業を中心に展開する多国籍企業。後にゼネラルエレクトロニクスに買収された)に雇われました。その後、ツヴォルキンはライバル視していたファーンズワースの研究室に身分を偽り訪問することに成功しました。このときイメージディセクタ性能を目にし、RCAにある自身の研究室に戻ってからすぐにその複製実験を開始しました。
1931年(昭和6年)にファーンズワースは、RCAのデヴィット・サーノフから、電子式テレビに関する特許を10万米ドルで売却してほしいとの依頼を受けました。ファーンズワースはRCAへの特許の売却を拒否し、フィルコ社と契約しフィラデルフィアでの新たな研究生活を開始しました。
しかし、後にRCAとの特許問題によりフィルコ社との契約を解除せざるを得なくなってしまいました。1936年(昭和11年)にファーンズワースの会社は娯楽番組の実験放送を開始しました。この頃ファーンズワースは、テレビ以外の研究でも成果を出し始め、電波を利用して牛乳を殺菌する方法や、船や航空機用の霧の中でも見える照明ビームの開発に成功していました。
1938年(昭和13年)、インディアナ州にファーンズワース・テレビ・ラジオ社が設立されました。翌年にはRCA Victorへ対してテレビに関する複数の特許を100万米ドルで売却し、直後よりRCAから一般販売され始めました。
1951年(昭和26年)、ファーンズワース社は国際電信電話会社(ITT)に買収されました。そのころ、ファーンズワースは様々な革新的な仕事をしており、防御早期警戒信号、潜水艦検知機器、レーダー軟正機器、赤外線望遠鏡などの研究にあたっていました。特に、PPI Projectorの開発は、航空交通管制の安全性を大きく高めたことで注目を集め、現在の航空交通管制システムに繋がるものとなりました。
その後、ファーンズワースは核融合に関する研究も開始し、1967年(昭和42年)には家族と一緒に故郷のユタ州へと戻りブリガムヤング大学で研究をすることになりました。アメリカ航空宇宙局と契約をし、可能性が大きくなってきていましたが、毎月の多額の機器レンタル料と月給の支払い額合計2万4,000ドルは滞ってしまうことも多かったそうです。
そんな生活が続いていて、1970年(昭和45年)ついに資金が尽きてしまいました。アメリカ合衆国内国歳入庁からの差し押さえにより、実験室が封鎖されてしまいました。肺炎を患っていたファーンズワースは、翌年の1971年(昭和46年)3月11日、ソルトレイクシティで息を引き取りました。
電子式テレビシステムの開発以降は大変な人生を送っていました。とはいえ、電子式テレビシステム以外にも、世界初の電子顕微鏡、世界初の新生児特定集中治療室などさまざまな発明を世に残してくれました。

今回は世界初の電子式テレビシステムを発明したアメリカ人研究者のフィロ・ファーンズワースの生涯を振り返ってきましたが、いかがだったでしょうか。ファーンズワースの発明により高画質のテレビ放送が可能となり、私たちの生活が非常に豊かになりました。彼の電子式テレビシステムは20世紀後半まで世界中で利用されており、実際に利用していたという方も多いことでしょう。さらに、航空交通管制システムや電子式顕微鏡など幅広い分野において革新的な発明を誕生させてくれました。特許紛争や資金不足などに悩んだ晩年でしたが、私たちの生活を豊かにしてくれた事実は変わりありません。これから先どのような発明が誕生し、どのような世の中になっていくのかとても楽しみですね!

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