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【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】トランジスタの発明家 ウィリアム・ショックレー(ノーベル物理学賞を受賞したシリコンバレーの産みの親)

2022.12.02

SKIP

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらは全て先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。私たちの生活に欠かすことのできないスマートフォンやタブレット、パソコン、自動車、そのほか数多くの電化製品にはトランジスタと呼ばれる部品が組み込まれています。トランジスタは論理回路を構成するための部品としてとても広く普及しており、トランジスタがなければ現在のようなIT社会は実現できなかったでしょう。そんなトランジスタを発明したことで有名なのが、アメリカ人物理学者のウィリアム・ブラッドフォード・ショックレー・ジュニア(William Bradford Shockley Jr.)です。発明後、ショックレーはトランジスタの商業化に尽力し、アメリカ、カリフォルニア州のシリコンバレーが誕生するきっかけを作った人物でもあります。現在シリコンバレーは世界中から最先端のIT技術が集まり、高度な研究が行われる場所に成長しました。そして今やトランジスタがなければ生活が成り立たないほどにまで重要な素材となりました。そこで今回は今の世界を作り上げてくれた物理学者、ウィリアム・ブラッドフォード・ショックレー・ジュニアの生涯を振り返っていきましょう。

 

ウィリアム・ショックレーの生涯(幼少期から第二次世界大戦での活躍まで)

ウィリアム・ショックレーは、1910年(明治43年)2月13日にイギリスのロンドンで生まれました。幼いころにアメリカ合衆国カリフォルニア州のパロアルトへ引っ越し、その後はカリフォルニアで育ちました。ショックレーの父、ウィリアム・ショックレー・シニアは鉱山技師として家族を養っており、なんと8か国語を多才に操る人物でもありました。母はアメリカ合衆国で生まれスタンフォード大学を卒業後、米国で初の女性採掘測量士補となりました。

そんな両親から育てられたショックレーはカリフォルニア工科大学に進学し、1932年(昭和7年)に学士を取得しました。翌年には結婚し、さらに翌年には長女も誕生しました。大学卒業後にはマサチューセッツ工科大学へ進学し、化学の研究に励みました。1936年(昭和11年)にはPh.D.の学位(英語圏で授与される博士の学位)を取得しました。

Ph.D.取得後には、ニュージャージー州にあったベル研究所(世界初の実用電話機を発明したことで有名なグラハム・ベルが設立した研究所であり、現在の米国大手通信会社AT&Tの研究開発部門)で研究することとなりました。ベル研究所ではクリントン・デイヴィソン(ニッケル単結晶による電子線の回折を発見した米国の物理学者)が率いる研究チームに参加しました。そこでショックレーは数年間研究を続け、固体物理学の基礎的論文を複数発表し、それらはフィジカル・レビュー誌に掲載されました。

1938年(昭和13年)にショックレーは電子倍増管(二次電子放出という現象を利用し入射した電荷を増加させる構造の真空管)に関する研究においてその価値が高く評価され、自身初の特許(Electron Discharge Device)を取得しました。

1939年(昭和14年)には第二次世界大戦が勃発し、ショックレーは米軍のためにレーダーの研究をすることとなりました。3年後にはコロンビア大学へと移り、対潜水艦技術の研究を指揮しました。ここでは護送船団技術の改善や機雷投下パターンの最適化などに関する研究にあたったそうです。1944年(昭和19年)の後半には3カ月かけ世界中の基地をまわり、教育が行き届いているかの確認を行いました。1945年(昭和20年)の7月、米軍は日本の本土に上陸する計画を立てていました。それに伴いショックレーは、日本上陸時の死傷者数のシミュレーション予測を依頼されました。「500万~1,000万人の日本人を殺す必要があり、それにより米軍も170万~400万人の死傷者が発生、うち40万~80万人の戦死は免れないだろう」との予測が出されました。この予測が、上陸せず降伏させるために広島と長崎へ原爆を投下するという決断に繋がったそうです。終戦後の1946年(昭和21年)、ショックレーは戦争中の行いが評価され、陸軍長官ロバート・ポーター・パターソンから功労賞が贈られました。

 

ウィリアム・ショックレーの生涯(トランジスタの発明から晩年まで)

終戦後、ショックレーは再びベル研究所に戻り研究を再開することになりました。この頃、ベル研究所には固体物理学専門の部門が設立され、ショックレーと化学者のスタンレー・モルガンの2人が中心となり指揮を執りました。チームは真空管増幅器の代替となる固体(のちの半導体)の発見を目標に研究を続けました。

多くの研究者が在籍していましたが、研究は難航し結果を出せない日が続いていました。メンバーの一人だったアメリカの物理学者ジョン・バーディーンが表面準位に関する理論を提唱したことで進展しました。1946年(昭和21年)の冬には十分に結果が得られ、表面準位に関して論文化されました。

さらにメンバーの一人だったアメリカの物理学者ウォルター・ブラッテンが半導体表面に強力な光を照射する実験を開始し、初期段階で実験失敗が連続した原因を推測できるまでになりました。その後、半導体と導体の導線と接触点を電解液に浸すという実験によりさらに研究が軌道に乗りました。ショックレーは他の研究者らに助言をし、pn結合(P型半導体とN型半導体が接触している領域)部分にホウ酸グリコールを少量置いたのち電圧を印加する実験が行われました。この実験によって、ついに増幅作用が観測されました。

1947年(昭和22年)の12月、ベル研究所ではバーディーンとブラッテンが点接触型トランジスタの開発に成功し、翌月に特許を取得しました。その直後、ショックレーの電界効果原理については、1930年にカナダで特許が取得されていることが明らかとなりました。当時その特許はほぼ効力がありませんでした。しかしトラブルを避けるために、既に出願されていた特許3つを含む合計4つの特許にショックレーの名を載せず電解質によるトランジスタとして出願することが弁理士により決定されました。この決断に対して、自身考案の電界効果が発明の原点だと考えていたショックレーは怒りをあらわにしていたそうです。

そして、ショックレーは結合型トランジスタの研究を開始しました。先述のように発明家として名前が挙げられなかったことに加え、点接触型トランジスタは壊れやすく量産が難しいと考えていたからです。研究を重ね、1949年(昭和24年)には結合型トランジスタの動作原理を証明し、2年後の1951年(昭和26年)には報道陣に向け結合型トランジスタが発表され、同年特許を取得しました。結合型トランジスタは点接触型に比べ圧倒的なシェアを獲得するようになりました。

ベル研究所ではショックレーと併せてバーディーンとブラッテンがトランジスタの発明者として説明していましたが、世間からは圧倒的にショックレーが有名になり、2人もショックレーと仲が悪かったため2人はトランジスタ研究からすぐに去っていきました。

その後ショックレーは様々な輝かしい賞を受賞しました。1955年(昭和30年)、診断とライフサイエンスを軸に生物医学検査の簡素化や自動化、製造の事業を展開しているBeckman Coulter Inc. がカリフォルニア州サンタクララ郡のマウンテンビューにショックレー半導体研究所を設立し、ショックレーが所長に就任しました。そしてこの研究所が徐々に発展し後のシリコンバレーとして世界を率いるようになりました。そして、ショックレーは、ジョン・バーディーン、ウォルター・ブラッテンと共にトランジスタの発明に対して、3人で1956年のノーベル物理学賞を受賞しました。

その後は研究所内での人間関係に悩まされたり、新たな半導体素子開発研究の商業化失敗を経験したりしました。晩年には人種・知能・優生学への関心を高め、精子提供を行い「ノーベル賞受賞者の精子バンク」として報道されたこともありました。

1989年(平成元年)8月12日、ウィリアム・ショックレーは前立腺癌によってこの世を去りました。

 

今回はトランジスタを発明したアメリカ人物理学者のウィリアム・ショックレーの生涯を振り返ってきました。ショックレーは第二次世界大戦に参加したり共同研究者との人間関係に悩んだりしながらも、その後市場を圧倒する結合型トランジスタを発明し有名になりました。そして、今や世界中からIT分野の最先端技術が集まる場所となったシリコンバレーの原点となった人物でもありました。波乱万丈の人生でしたが、彼が発明したトランジスタがあるからこそ、現代のIT社会が実現できています。歴史的な発明の経緯を知ると周囲の物事への見方が変わってこないでしょうか。これから先どのような発明が誕生するのかとても楽しみですね!

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