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【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】カラーファックス+テレビ電話の発明家 ハーバード・ユージーン・アイヴス(特殊相対性理論を否定しようとした実験で、逆に正しさを証明してしまった天才発明家)

2022.10.05

SKIP

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらは全て先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。現在では遠方の人とのテキストのやり取りはSNSや電子メールが一般的となっています。それらの手段が一般的となる前の時代ではファックスが主流でした。電話通信回線を利用することで、遠くの場所でも書類などの原稿や画像を送信することができ非常に画期的な技術でした。また、私たちの情報収集の手段や娯楽として欠かせなくなっているのがテレビです。これらの製品は私たちの生活に欠かすことができず(できなかった)、生活を豊かにしてくれています。ファックスやテレビを直接発明したわけではありませんが、開発の指揮を執ったことで有名なのが、アメリカの科学者でありエンジニアだったハーバート・ユージーン・アイヴス(Herbert Eugene Ives)でした。アイヴスはAT&T Inc.で的確なリーダーシップを発揮して世の中に素晴らしい発明を残してくれました。そこで今回は、テレビやファックスの開発を指揮した素晴らしい科学者兼エンジニアだったハーバート・ユージーン・アイヴスの生涯を振り返っていきましょう。

 

ハーバート・ユージーン・アイヴスの生涯(幼少期からカラーファックス送信まで)

ファックスとテレビの開発で指揮を執り、これらの発明に大きく貢献したことで知られているのがハーバート・ユージーン・アイヴスです。ここではハーバート・ユージーン・アイヴスの生涯について振り返っていきます。

ハーバート・ユージーン・アイヴスは、1882年(明治15年)7月21日にアメリカ、ペンシルベニア州のフィラデルフィアで誕生しました。アイヴスの父、フレデリック・ユージーン・アイヴスはカラー写真の専門家でした。学生時代は、ペンシルベニア大学とジョンズ・ホプキンズ大学に通い学びを深めました。大学で研究し1908年(明治41年)に卒業しました。大学を卒業した同年にはメーベル・ローレンツと結婚し、その後には3人の子宝に恵まれました。

1920年(大正9年)には航空写真についての本を執筆し出版しました。この時期は、航空機部門の幹部が軍により占められていたころでした。また、1924年(大正13年)から1年間アメリカ光学会(会員数22,000人を誇る光学とフォトニクスに関連する個人と企業による専門職団体。英語表記頭文字からOSAと呼ばれている。)で代表も務めていました。さらに、ベル研究所(世界初の実用的電話を発明したことで有名なグラハム・ベルによって設立されたとされるアメリカニュージャージー州の通信研究所)では電気工学研究部門の主任も務めていたそうです。

この頃、アイヴスは父と同じく、研究を重ねカラー写真の専門家となっていました。アイヴスは1924年(大正13年)には初のカラーファックス送信を成し遂げました。モデルとなったのはルドルフ・ヴァレンティノ(音声やセリフがないサイレント映画時代に活躍したイタリア人のハリウッド俳優)でした。1924年に制作された恋愛時代劇風のアメリカンサイレント映画「ムッシュ・ボーケール」の中で、個別に撮影された赤、緑、青の3色を用いて世界初のカラーファックスを送信、再構成しました。

 

ハーバート・ユージーン・アイヴスの生涯(ベル研究所入所以降の活躍)

3年後の1927年(昭和2年)には、ハーバード・クラーク・フーヴァー(アメリカの政治家、第31代アメリカ大統領、当時のアメリカ合衆国商務長官)のライブビデオ映像をAT&T(アメリカ最大手の通信会社、電話・情報通信システムなど幅広いソリューションの提供を行っている)の実験施設の3XNを通して送信しました。これによりメディアで取材をしている人達とフーヴァーとの会話が可能となりました。さらに、アイヴスによって185本もの走査線の長距離テレビジョンの実演も実施され、大きな技術革命となりました。

さらに3年後の1930年(昭和5年)までには、テレビ電話システムの使用実験も実施されるようになりました。

この頃には、ベル研究所内でも特に大型施設であったニューヨーク研究施設にて、アイヴス率いる200名規模の超大規模科学者チームが結成されていました。アイヴスの研究チームは、長距離通信とエンターテイメント放送の両方を達成することを最終目標としていました。目標達成のため何年間も研究開発を続け、ついにベル研究所からテレビ電話やテレビジョンの開発が予定されるまでになったそうです。

その後アイヴスはベル研究所を退任することになりました。そのため、テレビ電話やテレビジョンの発明の瞬間に、アイヴスが直接立ち会うことはありませんでした。しかしながら、アイヴスの退任後も科学者チームでは研究が継続されました。テレビ電話の開発研究のためベル研究所ではなんと5億ドルもの予算が設けられました。長い研究は、AT&Tから当時の最新性能であったピクチャーフォンのサービス展開へとつながりました。

一方その頃のアイヴスはオートステレオスコピーと呼ばれる手法による3D画像表示に関心を示していました。1930年代前半のベル研究所退任前には、parallax panoramagramsと呼ばれる3D画像の作成方法とその装置の開発研究にも尽力していました。アイヴスの研究は高く評価され、アメリカのジャーナル「Journal of the Optical Society of America」に研究成果が複数掲載され、数々の特許も取得しました。

その後アイヴスは、ヘンドリック・ローレンツ(オランダの物理学者でありローレンツ力、ローレンツ変換などで広く知られている)の哲学を参考に、論理的議論と実験により相対論的効果(現代物理学の基本理論である相対性理論において、非相対論による計算からのずれのこと)の物理的実在性を実演しようとしていました。

そしてアイヴス=スティルウェルの実験を行い特殊相対性理論(光速は絶対的だという「光速不変の原理」や、時間と空間は非独立的で相互関係しているという認識)の時間の遅れが直接立証されることになりました。アイヴスは最終的に間違った考えだとして、相対性理論の存在を否定しようとしていました。しかし科学者たちが本実験に対してアイヴスの予想とは逆の解釈をしたことにショックを受けてしまったそうです。結果としてアイヴスが行った実験は相対性理論の反証どころか存在証明としての大きな根拠となりました。その後、アイヴスは相対性理論に関する研究を続け、一連の記事も公開しました。

1953年(昭和28年)11月13日、アメリカニュージャージー州のアッパーモントクレアにて息を引き取りました。

彼が研究チームの指揮を執りファックスやテレビの技術が進歩しました。直接の発明に立ち会ったわけではありませんでしたが、私たちの生活を豊かにしてくれたことに違いはありませんでした。

 

今回はファックスやテレビ電話、テレビの開発チームの指揮を執り、それらの発明に大きく貢献したアメリカの科学者でエンジニアであったハーバード・ユージーン・アイヴスの生涯を振り返ってきましたが、いかがだったでしょうか。カラー写真専門家としての一面もあったアイヴスは、ベル研究所で長年にわたり大規模研究チームの先頭として活躍してくれていました。そしてそれはその後AT&Tからのサービス展開開始に大きく貢献していました。さらに、現代物理学の基礎理論となっている相対性理論の存在証明に大きく貢献したのもアイヴスが行った実験でした。この実験により物理学が大きく発展し、その後の様々な研究や発明のすじ道を作ってくれたことは言うまでもありません。日常生活に置いて相対性理論などを考えることは少ないかもしれませんが、直接私たちの生活を豊かにしてくれたことは紛れもない事実です。今後どのような研究や発明が誕生し、どのような世界になっていくのか非常に楽しみですね。

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