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【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】チンチン電車とケーブルカーの発明家 P・G・Tボーリガード(アメリカ南北戦争の「灰色のナポレオン」と呼ばれた南軍の将軍、ニューオリンズの鉄道会社社長)

2022.09.17

SKIP

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらは全て先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。かつてアメリカ合衆国内で勃発した南北戦争の南軍の将軍であり、「灰色のナポレオン」と知られた人物がいました。それはアメリカルイジアナ州出身の人物、ピエール・グスターヴ・トゥータン・ボーリガード(Pierre Gustave Toutant Beauregard, P・G・Tボーリガード)でした。彼は著作家、公務員、政治家など様々な経験をしましたが、発明家としての一面も持っていました。鉄道会社の社長をしていた時に送電線による市街電車の仕組みを発明し、新たなシステムによるケーブルカーの運行にも成功させました。彼の功績は現在の電車社会に大きく貢献しています。そこで今回は南北戦争で南軍の将軍、著作家、公務員、政治家そして発明家として様々な経験を持つ人物、P・G・Tボーリガードの生涯を振り返っていきましょう。

 

P・G・T・ボーリガードの生涯(幼少期からメキシコ・アメリカ戦争まで)

P・G・Tボーリガードは南北戦争の南軍の将軍、著作家、公務員、政治家、そして発明家として活躍した人物です。ここではP・G・Tボーリガードの生涯を振り返っていきましょう。

1818年(文政元年)5月28日、P・G・Tボーリガードはアメリカ合衆国ルイジアナ州、ニューオーリンズ郊外のセントバーナード郡の「コントレラス」プランテーション(さとうきびプランテーション)で、白人クレオール(1803年のルイジアナ買収によってアメリカとなる以前のフランス領ルイジアナ時代の先住民族を先祖に持っている全人種および異人種間の混血の人々を指している)の家庭で誕生しました。

幼いころはニューオーリンズにあった学校に通っていました。その後はニューヨーク州にあったフランス語学校に通い英語を学び始めたそうです。ボーリガードはここで英語を学び始めるまではフランス語しか話せなかったそうです。

学校教育を受けた後にはニューヨークのウェストポイントの米国陸軍士官学校に通うことになり訓練を受けました。ここでボーリガードの教官だった人物が、ロバート・アンダーソンで、彼は南北戦争開始時のサムター要塞指揮官でした。ここで訓練を受け、ボーリガードは砲兵と工兵ともに優秀で同期内で2番目の成績を収め1838年(天保9年)に卒業しました。

1846年(弘化3年)、メキシコ・アメリカ戦争がはじまり、ボーリガードはウィンフィールド・スコット(アメリカ陸軍の将軍・外交官)のもとで工兵として参戦しました。コントレラスの戦い(1847年のメキシコ・アメリカ戦争の最後の会戦)とチュルブスコの戦い(コントレラスの戦いの直後に勃発した戦闘)で名誉大佐に任命され、チャプルテペクの戦い(チュルブスコの戦い後にアメリカ軍がメキシコ軍に勝利した戦闘)では方と太腿にけがを負いながらも少佐に昇進しました。

メキシコ・アメリカ戦争終戦後の1848年(嘉永元年)に帰国し、フロリダ州ガルフコースト沿いの要塞建設の監督に任命されました。さらに、セントフィリップ砦とジャクソン砦の胸壁を作り上げました。同時期にボーリガードは自走式バー掘削機という機械の発明に成功しました。これにより、船舶が砂州を綺麗にすることが簡単になりました。自走式バー掘削機はその価値が認められ、後に特許を取得しました。

1858年(安政4年)には地元のニューオーリンズ市長選挙に立候補するも僅差で敗れてしまいました。数年後には訓練を受けたウェストポイントに戻り教官となり、1861年(文久元年)の1月には士官学校の校長にもなりました。しかし、その後ルイジアナ州がアメリカから脱退したことによってわずか5日で辞任することになりました。

 

P・G・T・ボーリガードの生涯(南北戦争の指揮とケーブルカーの発明)

1861年(文久元年)の3月にボーリガードは准将としてアメリカの南軍に入隊しました。その後すぐに昇進して南軍の大将の役職をもらいました。軍隊に対する考え方の違いのよりデイヴィス大統領との摩擦が生じ、年々溝が深まっていきました。

南北戦争がはじまり、ボーリガードはジョセフ・ジョンストン将軍と共に南軍の先頭に立ち、第一次ブルランの戦いに挑み勝利しました。

その後ボーリガードはテネシー州に派遣されることになりシャイローの戦いで南軍の指揮を執りました。初日の戦いで北軍が敗れたと思い込んだボーリガードは早い段階で攻撃を止めさせてしまいました。結局2日目もうまくいかずに終わり南軍は補給基地からの撤退を余儀なくされました。その後南軍の指揮官はブラクストン・ブラッグ将軍に移り、ボーリガードは降ろされてしまいました。

その後はジョージア州とサウスカロライナ州へ行き、1862年(文久2年)から1864年(文久4年)までのあいだ複数回北軍からの防衛に成功しました。しかし、その後南軍の展開方式に問題があり十分な戦力を確保できなかったことから、1865年(元治元年)にボーリガードはジョセフ・ジョンストン将軍と共に、ノースカロライナ州で優勢だった北軍のウィリアム・シャーマン少将に降伏し、南北戦争は終戦しました。

終戦後ボーリガードは民主党員として政界に入ったり、軍事関係書「兵法の原則と原理」(1863年)、「チャールストン防衛の報告書」および「マナサス方面作戦と戦闘に関する注釈」(1891年)などを執筆したりしました。

1865年(元治元年)からはニューオーリンズ・ジャクソン&ミシシッピ鉄道の社長に就任しました。さらに1866年(慶応元年)にはニューオーリンズ&キャロルトンストリート鉄道の社長にも就任しました。この時にボーリガードは送電線による市街電車のシステムを開発しました。さらにボーリガードは頭上の循環するロープをつかんだり話したりすることで推進力を発生させるケーブルカーの開発にも成功しました。1869年(明治元年)、ニューオーリンズで彼が発明したケーブルカーの運行を実演しました。その価値が高く評価されたことから同年の11月30日にケーブルカーの特許を取得しました。

世界で最古のケーブルカーは1873年にサンフランシスコで建設されたものだと言われていますが、ボーリガードのこのシステムはその後の電車の発展に大きく貢献しました。

その後もルイジアナ州政府やニューオーリンズの公共事業検査官に選出されるなど多くの職を経験しました。

1893年(明治26年)2月20日、P・G・Tボーリガードはニューオーリンズで睡眠中にこの世を去りました。ボーリガードはニューオーリンズのメタリー墓地のテネシー軍人墓地に埋蔵されました。

 

今回はアメリカ南北戦争の南軍の将軍として活躍し、そのほか著作家、公務員、政治家、そしてケーブルカー新システムの発明など非常に幅広い分野で功績を残した人物P・G・Tボーリガードの生涯を振り返ってきましたが、いかがだったでしょうか。今回ご紹介できたのは彼の人生のうち一部分のみでしたが、こんなに広い分野で活躍した人は他にいないのではないかと思うくらいの活躍ぶりでした。かつて世界各地で勃発していた戦争は、ほんの最近になって人類史における負の遺産として語り継がれるようになってきました。彼が戦争に参戦したことは事実ですが、幅広く働き、アメリカを作り上げ世界に貢献できるシステムの開発を行った人物でした。彼が発明したモノとして有名な送電線による市街電車のシステムやケーブルカーの新たなシステムは、現代の鉄道インフラに大きく貢献してくれたに違いありません。現在の発明家とは少し違った生き方を経験した過去の発明家の人生を知ると、周りへの見方も変わってくるかもしれませんね。そして今後どのような発明が誕生し、どのような世界に変化していくのか楽しみですね。