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【SKIPの知財教室(IP Hack®)】ジェファーソンディスク(暗号装置)+耕運機+回転椅子+マカロニマシンの発明家 トーマス・ジェファーソン(第3代アメリカ大統領)

2022.08.11

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現在世界の中心として思い浮かべるのはアメリカ合衆国ではないでしょうか。世界経済やファッションなどの中心として世界を率いている大国です。しかし、そんなアメリカ合衆国はかつて植民地支配されていたということをご存知でしょうか。現在のアメリカは16世紀後半からイングランド(現在のイギリス)、スコットランド、フランスなどのヨーロッパ諸国によって植民地化されました。その後、1776年(安永5年)7月4日に、グレートブリテン王国によって支配されていた13植民地が独立するまで植民地時代が続きました。この時大陸会議によってアメリカのフィラデルフィア採択されたのが「アメリカ独立宣言」です。アメリカ独立宣言の文書を作成するのにあたったのが、アメリカ合衆国の政治家で第3代アメリカ大統領のトーマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson)でした。トーマス・ジェファーソンはこれまでに「最も影響力のあったアメリカ合衆国建国の父の一人」として多くの方から称されていますが、実は、偉大な発明家でもあったのは知らない人も多いと思います。そこで今回は今のアメリカを作ったといっても過言ではない人物、アメリカの政治家トーマス・ジェファーソンの生涯を振り返っていきます。

トーマス・ジェファーソンの生涯(幼少期から植民地議会議員まで)
1743年(寛保3年)4月2日、トーマス・ジェファーソンは父・ピーター・ジェファーソンと母・ジェーン・ランドフルの息子としてバージニア植民地(北米大陸に設立されたイギリス領植民地、アメリカ独立宣言以降にはアメリカバージニア州となる)に誕生しました。
ジェファーソンの両親はバージニア入植者の古い家系であり、植民地内でも著名な人との関係があったそうです。母は裕福な暮らしをするイギリス系ジェントリ(イギリスの下級地主層の総称)の孫娘であり、父はアルベマール郡で農園経営と測量士をしていたウェールズ人の子孫でした。1745年(延享2年)に一家はタッカホー(現在のニューヨーク州)に引っ越し、7年後再びアルベマールの自宅に戻りました。
9歳になったジェファーソンは、スコットランド人牧師のウィリアム・ダグラスが経営していた地元の学校に通い始めました。そしてその年からなんとラテン語、古代ギリシア語、フランス語の3言語を学び始めたそうです。
1757年(宝暦7年)、ジェファーソンが14歳のときに父が亡くなりました。その時に約20平方キロメートルの領地と数十人規模の奴隷を相続したそうです。その後1758年(宝暦8年)から1760年(宝暦10年)までの間、学識のあった牧師ジェイムズ・モーリーの学校に通い、古典教育の歴史や化学を学びました。
1760年(宝暦10年)にはウィリアムズバーグ(現在のバージニア州ハンプトン・ローズ)の名門大学ウィリアム・アンド・メアリー大学に進学しました。哲学科に入ったジェファーソンは、数学、形而上学、哲学を中心に学んだそうです。非常に勉学熱心であり、フランス語を極め、ギリシア語の文法本を持ち歩き、多くの本を読みこんでいたそうで、時に1日に15時間も勉強していました。2年間大学で過ごし1762年(宝暦12年)には優等賞を受賞して卒業しました。
大学卒業後にはジョージ・ワイス(アメリカ合衆国の弁護士、独立宣言に署名した人物)と一緒に法律について学びを深めました。そして1767年(明和4年)にバージニア法廷弁護士となりました。多くの事件を扱いながら一般裁判所だけでも年間で100以上の訴訟を扱いながら、数百にも上る事件の相談に乗っていたくらい忙しい日々を過ごしていました。
1769年(明和6年)から弁護士の仕事と併せてアルベマール郡選出のバージニア植民地議会議員となりました。5年後の1774年のイギリスの議会では「耐え難き諸法」が成立しました。これは強制諸法とも呼ばれ、イギリスの北米植民地についてイギリスの議会で成立した法律を指していました。しかし、これらの法に関してアメリカの13植民地民は怒りと抵抗を露わにし、その後のアメリカの独立運動に発展する出来事になりました。
そしてジェファーソンは「植民地民は自分たちを治める自然の権利がある」と提案し、「イギリス議会では植民地において立法する権限まではない」と主張をしました。アメリカの独立を目指していたジェファーソンの考え方は、最も思慮深い愛国的代弁者として周囲から注目を集めました。

トーマス・ジェファーソンの生涯(アメリカ独立宣言とそれ以降)
1775年(安永4年)の6月、イギリス本国と北米イギリス領の13植民地とでアメリカ独立戦争が開始されました。その頃、ジェファーソンは第二次大陸会議のバージニア代表議員になっていました。ジェファーソンは出席者の中で2番目に若い人物でした。しかし彼は大陸会議で「英国首相のフレデリック・ノース卿からの和解提案に対する拒否」など、複数の重要文書の執筆を任せられました。
翌年の1776年(安永5年)6月には大陸会議にて、リチャード・ヘンリー・リー(アメリカの独立へ向けて動いた名高い政治家)の独立決議案が審議され始めていました。そしてジェファーソンは宣言の準備のために五人委員会(アメリカ独立宣言の草案を起草して大陸会議に提出した5人から成る委員会)の委員に選出されました。ジェファーソンは筆が立つとの評判があったことから、初稿の執筆者として選出されたそうです。ジェファーソンは他の委員に相談しながら執筆を進めていました。自身が提案したバージニア憲法の草案、ジョージ・メイソンが起草したバージニア権利章典など複数の資料から引用を経てなんとか初稿を完成させました。
ジェファーソンが執筆した草稿を五人委員会が確認し、最終版として6月28日に大陸会議に提出されました。大陸会議では宣言に向けて準備が始められました。数日間にわたって大陸会議では議論が続き、大西洋奴隷貿易を批判した部分など、全体の4分の1が削除されてしまいました。この削除に対してジェファーソン自身は不満が残っていたようです。
そして7月4日、ついにアメリカ独立宣言が承認されました。これにより、イギリスに統治されていたアメリカの13植民地が独立し、アメリカ最初の13州が誕生しました。独立宣言によりジェファーソンは注目を集め、雄弁な前文はその後出される人権宣言の規範となっていきました。それから7月4日はアメリカの独立記念日として盛大に祝われる日となりました。
その後ジェファーソンはバージニア邦議会の議員や知事、連合会議の代表などを経験しました。1800年(寛政12年)のアメリカ大統領選挙に出馬し、翌年1801年の2月17日に第3代アメリカ大統領に就任しました。就任後はルイジアナ買収(1803年にアメリカがフランスから210平方キロメートル超えのルイジアナ領を買収した出来事)やルイス・クラーク探検隊(1804-06年にかけて太平洋へ陸路での探検をして帰還した白人アメリカ人の探検隊)を進めさせました。さらに強国だったイギリスなどとの戦争を回避し、学者たちからの評判も良く、アメリカ大統領の評価でも常に偉大なものの一人とされています。
トーマス・ジェファーソンは1826年(文政9年)の7月4日、アメリカ独立宣言の50周年記念日にバージニア州で亡くなりました。
ジェファーソンがアメリカ独立に尽力したことが大きく称えられ、多くの切手に肖像が入れられ、2ドル紙幣にも肖像が描かれました。そして「最も影響力のあったアメリカ合衆国建国の父の一人」とも言われ後世に名が語り継がれています。

発明家としてのトーマス・ジェファーソン
このように、政治家として輝かしい実績を遺したトーマス・ジェファーソンですが、実は、偉大な発明家であったことはご存知でしょうか?トーマス・ジェファーソンの有名な発明として、アルファベットの26文字が配置されたホイールまたはディスクのセットを使用するジェファーソンディスク(暗号装置)、木製のすきが取り付けられた耕運機、オフィスなどでよく使われている左右にくるくる回る回転椅子、マカロニの生地を押し出すことができる穴があいたマカロニマシンなどが知られています。オフィスで仕事をするときに、後ろから話しかけられて椅子をくるっと回して対応することも多いと思いますが、その回転椅子って、なんとトーマス・ジェファーソンの発明なんですよ!だから、アメリカ憲法では、発明家の権利がしっかりと保護されているんですね!

今回はアメリカを独立へと導いたアメリカの偉大な政治家、トーマス・ジェファーソンの生涯について振り返ってきましたが、いかがだったでしょうか。今では世界を率いている大国アメリカ合衆国ですが、かつてはヨーロッパ諸国から植民地支配されていました。その時代から独立へと向けて動いていた人物の一人がジェファーソンでした。かつてアジア諸国もほとんどが欧米諸国に植民地支配されていました。そして日本はなんとか明治維新で独立を守り抜いて数少ない植民地支配を受けなかった国です。とはいえ、日本は欧米諸国に対抗するためとはいえ、台湾、朝鮮などを植民地支配していた歴史もあります。植民地支配を受けていた地域にしかわからない特別な想いがあることに気づくきっかけとなったのではないでしょうか。植民地支配に苦しんだ歴史的な背景を考えるきっかけとなれば幸いです。

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