【SKIPの知財教室(IP Hack®)】アメリカの発明王 トーマス・エジソン(ゼネラル・エレクトリック創業者)
2022.07.22
SKIP
私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらは全て先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。蓄音機や白熱電球、活動写真(明治時代・大正時代における映画の呼称)など、現代のテクノロジー発展の原点ともいえるような発明を数々と成し遂げた人物がいます。およそ1300もの発明や技術革新を行い、「発明王」とも呼ばれた傑出した発明家がアメリカ出身のトーマス・アルバ・エジソン(Thomas Alva Edison)です。幼いころから科学に対して強く興味を示し、研究の末多くの発明品を世の中に残してくれました。白熱電球や蓄音機など多くの技術革新を残した輝かしい実績が注目されがちですが、数多くの失敗を繰り返し、並外れた努力を続けた人物でもあります。エジソンは機械発明の分野においては恐らく最も優れた人物ではないでしょうか。そこで今回は世の中におよそ1300もの発明と技術革新を行ったとされる米国出身の発明家、トーマス・アルバ・エジソンの生涯を振り返っていきましょう。
トーマス・エジソンの生涯(幼少期から初の発明の経験)
トーマス・エジソンは1847年(弘化3年)2月11日、アメリカのオハイオ州マイランで、父のサミュエル・オグデンJr.と母のナンシー・エリオットの間に誕生しました。エジソンは7人兄弟の末っ子でした。
小学校に入学したエジソンは身の回りのモノごとに対して様々な疑問を持つような少年でした。算数の授業中には「1+1=2」に対して、「2つの粘土を合わせても大きな1つの粘土になるのにどうしてだろう」と疑問を持ち感覚的に理解することに苦労したようです。さらに、物が燃えることに対して疑問に思ったエジソンは、藁を燃やして燃焼の様子を観察していたところ、自宅の納屋を全焼させてしまうという事件を起こしてしまったこともありました。小学校の担任には「君の頭は腐っている」、校長からは「他の生徒の迷惑になる」と言われてしまいました。様々なことに疑問を抱き質問を繰り返すというエジソンの姿勢と教師たちは馬が合わず、僅か3カ月で中退を余儀なくされました。
中退後エジソンは自宅で独学を続けました。特に興味を抱いた分野が化学の実験でした。ヘリウムガスからヒントを得て空を飛べるようになる薬の試作品を作成し、その薬を友人に飲ませてしまったようです。体内で発生したヘリウムガスによって空を飛べる試算でしたが、友人が激しい腹痛を起こし、大騒ぎになってしまったそうです。
15歳になったエジソンは駅で働いていました。その時、汽車に轢かれそうになっていた駅長の息子を助けたお礼に駅の電信システムについて教わったことがあったようです。この電信システムを学んだことが後に発明家の道に進むターニングポイントとなりました。
1864年(文久4年)、エジソンはカナダの駅で夜間電信係として働いていました。この時の仕事は「問題がない場合には1時間おきに勤務の証である信号を送るだけ」というものでした。一晩中その作業を続けることに退屈さを感じたエジソンは、時刻になったら自動で信号を送信してくれる機械を自作し、機械に任せたままずっと寝ていたようです。しかし、一瞬の誤差なく信号が送られていることに疑問に思った社員が駅に足を運んだことから機械の存在がばれひどく怒られてしまったようです。この時エジソンは17歳で彼にとって初の発明でした。
なんとかクビにはならなかったようですが、通信ミスで列車が衝突事故を起こしかけ、本社から出頭の命令が出たそうですが、それを無視して放浪生活をすることになりました。
1868年(慶応4年)、エジソンが21歳のとき電気投票記録機に関する発明により、初の特許を取得しました。メリットが多い発明品だったものの、様々な理由により実用化はされませんでした。この時にエジソンは「立派な発明でも人々が喜んでくれなければ全く意味がない」と痛感し、その後は周囲の人からの意見を取り入れるようになっていきました。
トーマス・エジソンの生涯(白熱電球の発明以降の活躍)
先述の電気投票記録機の発明を機に本格的に発明家となることを志しました。1877年(明治10年)に蓄音機の実用化に成功し、全米で有名になりました。発明された当初の蓄音機は音質が悪かったり、動作時間が短かったりと問題点が多くありましたが、非常に多くの方から評価される発明でした。
ニュージャージー州のメンロパークに研究室を作り、研究者たちを集めて発明家集団として研究を開始しました。ここでは蓄音機や電車、電灯照明などあらゆる研究を行っていました。
そして1878年(明治11年)、エジソンの数ある発明の中で最も有名であろう白熱電球の研究が開始されました。エジソンが研究を開始した当時、イングランド出身の物理学者ジョセフ・スワンが白熱電球を発明していました。しかし、その白熱電球は実用化されるほど長時間利用可能な製品ではありませんでした。それを超える白熱電球を実現させるために、エジソンはおよそ2万回にも上る実験を繰り返したそうです。
実験の結果、白熱電球の点灯時間は48時間にまで大幅に伸ばすことに成功しました。正確に言えば白熱電球を初めて発明した人物ではありませんが、米国で実用化にこぎつけたということからエジソンは白熱電球の発明者として有名になりました。同年には会社(後のゼネラル・エレクトリック社)を設立しました。
1887年(明治20年)には研究の拠点をニュージャージー州のウェストオレンジ研究室に移しました。そして1891年(明治24年)には、映画を上映する装置のキネトスコープをエジソンが、動画撮影機のキネトグラフをエジソンの部下ウィリアム・ディックソンが開発することに成功しました。
1893年(明治26年)には研究室内に米国で初となる映画スタジオの「ブラック・マリア」を設立しました。スタジオでは白黒フィルムの制作を開始しました。その後は新しいスタジオなどを開設し、最終的にはなんと1200本ものフィルムを制作したそうです。
エジソンは電気自動車が未来の自動車の姿だと確信し電気自動車の開発を開始しました。そして1910年(明治43年)に電気自動車の開発に成功しました。なんとこの電気自動車はプロモーションの一環で1600キロメートルも走行しました。しかし、非常に高価だということで需要が少なく、ガソリンを利用する自動車が一般的となりました。
晩年のエジソンは死者との交信を可能にする装置に興味を持ち研究を続けていました。しかし、死者との交信機器の開発には至らず、1931年(昭和6年)、トーマス・エジソンは84歳のときにこの世を去りました。
生前彼は非常に沢山の発明品を誕生させ、科学技術の変革を起こしてくれました。エジソンは「Genius is one percent inspiration, 99 percent perspiration. (天災は1%のひらめきと99%の努力)」という言葉を残しています。この言葉のように常にあらゆる物事に対して疑問を抱き研究を続けてくれたからこそ、素晴らしい発明がたくさん誕生しました。今回ご紹介できた発明品はエジソンが発明したもののうちほんの一部にすぎません。
今回は蓄音機、白熱電球などをはじめとしておよそ1300もの素晴らしい発明や技術革新を行ったアメリカ出身の発明王、トーマス・エジソンの生涯を振り返ってきました。今では当たり前となった製品ばかりですが、多くの研究者たちが挫折したものもエジソンが研究を継続してくれたため実用化に成功していました。エジソンの功績自体がたくさんありすぎるため今回は一部しかご紹介できませんでした。他にも功績を見てみると様々なものが発明されていたことが分かります。そしてそれらが私たちの生活を豊かにしてくれています。身の回りにある製品達も発明の秘話を知ると今後の見方が変わってくるのではないでしょうか。