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【SKIPの知財教室(IP Hack)】電子式卓上計算機(電卓)、デジタル時計、電子キーボードの発明家 樫尾俊雄(カシオ創業者)

2022.06.24

SKIP

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらは全て先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。私たちの生活で計算機は非常に身近なものとなっています。今ではスマートフォンに標準搭載されていたり、アプリで高度な計算ができたりととても便利になっています。一昔前のスマートフォンが普及する前には計算機が主流となっており、多くの家庭に置かれていました。また、資格試験などの電子機器の持ち込みが制限される場面などでは現在でも計算機が使われています。そんな小型計算機ですが、世界で初めて発明に成功したのが日本人の樫尾俊雄(かしおとしお)でした。彼が小型純電気式計算機を発明に成功したことにより、企業や一般家庭へと普及していきました。樫尾俊雄は小型純電気式計算機を発明した後も世の中のために研究を継続し、デジタル時計や電子キーボードの発明にも成功しました。彼が様々な功績を残してくれたことにより、現在ではカシオ計算機株式会社などへと大きく成長しました。そこで今回は世界で初めて小型純電気式計算機を発明した日本人の樫尾俊雄の生涯を振り返っていきましょう。

樫尾俊雄の生涯(電気式計算機の開発)
樫尾俊雄は大正14年(1925年)1月1日、東京府東京市京橋区(現在の東京都中央区)に誕生しました。俊雄が12歳のころにトーマス・エジソン(蓄音機、白熱電球など数多くの発明に成功し世界的に有名な米国の発明家)の伝記を読み、次第にエジソンへの憧れに変化していきました。この伝記はその後俊雄が発明家の道に進むきっかけとなりました。
高校卒業後には電機学校(現在の東京電機大学)に進学を果たしました。昭和15年(1940年)には電機学校を卒業し、逓信省(かつて存在した郵便や通信を管轄する中央官庁、現在の総務省・国土交通省航空局・日本郵政・日本電信電話の前身である)に入省しました。俊雄は逓信省でモールス信号の送信に関する研究に尽力していました。しかし逓信省への入省後にも俊雄の発明への情熱がおさまることはありませんでした。
俊雄は仕事の合間を見つけては研究活動を続けました。昭和20年(1945年)に太平洋戦争が終戦し、その頃の日本は復興の真っただ中でした。昭和21年(1946年)には本格的に新しい製品を開発したいという想いから逓信省を退官し、兄の忠雄が設立した「樫尾製作所」に俊雄も参加することになりました。俊雄は樫尾製作所で「兄を助けながら何かを発明したい」という想いから研究を始めました。そしてなんと昭和22年(1947年)には俊雄にとって人生初となる特許を取得しました(特許登録第174918号)。
昭和24年(1949年)、俊雄が海外で電動式の計算機を見たことで研究の方向性が定まりました。俊雄は兄の忠雄、弟の和雄と幸雄と共に兄弟で計算機の開発に取り組むことに決めました。
俊雄らが電気式計算機の研究を始めてから5年後、試作品の第一号を完成させました。俊雄は試作品を持って計算機販売会社へと足を運びました。しかし、そこで言われたのは「この製品は素晴らしい!しかし、輸入品はもっと素晴らしいよ。」でした。この言葉に非常に悔しく感じたことから、俊雄らは再び電気式計算機を開発し直すことになりました。

樫尾俊雄の生涯(電気式計算機の開発のやり直しから成功まで)
俊雄は他の兄弟たちと一緒に計算機の開発に再び乗り出しました。そこで俊雄らが注力し始めたのが、配線ミスをなくすための工夫です。計算機を開発する上で配線をつなぐ先を間違えないかどうかが非常に重要でした。そこで俊雄は配線ミスをなくすため「樫尾、君、無口だね(カシオキミムクチダネ)方式」を考案しました。カシオキミムクチダネ方式では、それぞれの配線に色がついたゴムをかぶせることで間違いを防いでいました。カは赤、シが白、オが青、キが黄色、ミが緑色、ムが紫色、クが黒色、チが茶色、ダが橙色、ネが鼠色でした。他の兄弟たちに笑われましたが、実際この方式を採用すると、効果はテキメンでした。配線ミスが大きく減り、月20台ほどの従来の生産台数から、徐々に増やしていくことに成功しました。
そして昭和31年(1956年)、ついに俊雄らは電気式計算機を完成させました。しかし、計算機自体のサイズが大きすぎたため飛行機に積め込めないという問題が発覚しました。どうしようもなかったため、一度分解することにして積め込んだそうです。配線や内部構造が非常に複雑なため一度分解してしまえば、正常に作動する保証はありませんでした。なんとか飛行機で空輸することには成功したものの、発表会会場の札幌では俊雄と弟の和雄が一晩中復旧作業に尽力することになりました。翌朝、かろうじて足し算と引き算はできるようになりましたが、掛け算と割り算は結局できないままとなってしまいました。発表会では俊雄と和夫がスライドを使って丁寧に説明しましたが、聴講者からは落胆と失望の声が上がってきたそうです。結局計算機の大きさが仇となり発表会は大失敗に終わってしまいました。
これが原因となり、取引していた大洋セールスからは契約が打ち切られてしまいました。その後ありがたいことに、ジム器具や文具の会社であった内田洋行の役員から契約してほしいとの申し出があり、契約出来ることになりました。
そのような支援もあり、俊雄らは翌年の昭和32年(1957年)6月に世界で初となる小型純電気式計算機の開発に成功しました。俊雄らはその計算機を「14-A」と命名し、商品化にまで至りました。
同年の11月には東京の大手町で製品発表会が開催されました。発表会には苦い思い出がありましたが、今回はすらすらと作動し、そこに集まっていた官庁関係者や大企業関係者らからは「素晴らしい」という声が続々と上がってきたそうです。俊雄ら兄弟はようやく安堵することができ、「外国製の計算機に負けない、国産の計算機を作る」と決めて7年後に夢を実現することができました。
これまでは企業などで利用される電気式計算機を想定していましたが、時代が進むにつれて家庭用の電気式計算機に目を向けるようになりました。俊雄らはこれまでよりもさらに安くさらに小さい家庭用計算機を開発することにしました。
そして昭和47年(1972年)、俊雄らは家庭用の電気式計算機(電子式卓上計算機(電卓))の「カシオミニ」を開発し、販売が開始されました。一人一台の時代となり、カシオミニは大ヒットしました。
俊雄はその後も発明のための研究活動を辞めることはなく、デジタル時計の「カシオトロン」、電子キーボードの「カシオトーン」など様々な製品の開発に成功しました。俊雄は「世界に先駆けて」「0から1を生み出す」「発明とは、1%のひらめきと49%の努力と50%の天佑」などの数々の名言を残し、これらの言葉を自分自身にも言い聞かせながら生涯を発明に奉げてくれました。
平成24年(2012年)5月15日、樫尾俊雄は87歳で発明家人生に幕を閉じました。
たとえテクノロジーの発展に伴ってそれらの製品が世の中での役目を終えても、俊雄の発明が私たちの生活を非常に豊かにしてくれたことは紛れもない事実です。

今回は世界で初めての小型純電気式計算機を発明した人物、樫尾俊雄の生涯について振り返ってきましたが、いかがだったでしょうか。俊雄らは電気式計算機を発明したいと志してから大きな失敗を経験して、成功をつかみ取りました。そして電気式計算機のみならずデジタル時計や電子キーボードなどの様々な製品の開発にも貢献してくれた人物です。私たちが何気なく使用している製品も、このような苦労があって誕生したモノだと知ると、周りの物事への見方が変化するのではないでしょうか。この先どのような発明が誕生するのかとても楽しみですね!

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