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【SKIPの知財教室(IP Hack)】鋳鉄管の発明家 久保田権四郎(クボタ創業者)

2022.06.02

SKIP

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらは全て先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。突然ですが、水道水が飲める国は世界に何か国あるかご存知でしょうか。安心して水道水が飲めるのは、日本のほか、アラブ首長国連邦、ドイツ、シンガポールなど、たった9か国ほどしかありません。190以上もの国と地域があるにもかかわらず、水道水を口にできる国がこんなにも少ないのはどうしてなのでしょうか。それは上下水道インフラの整備が整っていないことが原因にあります。日本は上下水道インフラが整備され、衛生環境も世界でトップクラスとなっています。日本に住んでいると当たり前かもしれませんが、水道インフラを整えるために尽力した先人がいたから今の安心できる環境があります。国産初の鋳鉄管製造に成功し日本の上下水道インフラ整備に大きく貢献したのが、久保田権四郎(くぼたごんしろう)でした。水道インフラが整備される前の日本では、海外からコレラというウイルスが持ち込まれ、公衆衛生の維持が困難で人々は恐怖のさなかにいました。その後、彼が国産の鋳鉄管の製造に成功したことから、安定した水道管製造が可能となりました。日本が世界規模で見ても珍しい安心の水道水を提供できているのは、彼が研究を重ねたからです。そこで今回は国産の鋳鉄管製造に尽力した人物、久保田権四郎の生涯を振り返っていきます。

久保田権四郎の生涯(鋳鉄管製造開始まで)
日本が世界でもトップクラスに公衆衛生が保たれており、安心して水道水を利用できるのは、久保田権四郎が上下水道インフラを整えてくれたからです。ここでは国産初の鋳鉄管製造に成功した久保田権四郎の生涯について振り返っていきましょう。
明治3年(1870年)、久保田権四郎は備後国御調群大浜村(現在の広島県尾道市)に誕生しました。権四郎の実家は農業で生計を立てており、裕福な家庭ではありませんでした。幼いころ、権四郎は勉強を好まずあまり学校には行かなかったようです。ちょうど近くにあった瀬戸内海を観ながら育った権四郎は、航行する蒸気船を観ながら「いつかはあんな大きな船を造る鍛冶屋になりたい」という夢を抱くようになったそうです。
また、貧しかったこともあり母親が苦労していた姿もしばしば目にしていました。そんなこともあって「早く出世して両親に楽な生活をさせてあげたい」と感じるようになりました。その後、権四郎は大阪へ移り鋳物屋に丁稚奉公(幼い子供が見習いとして商人や職人の下に住み込みで働きながら給料をもらう習慣のこと)しました。
権四郎は真面目に働き続け、しっかりと計画的に資金を貯めていきました。そして権四郎が19歳のとき大阪府大阪市南区(現在の中央区)で「大出鋳物」を創業し独立を果たしました。独立後、権四郎は秤で使用する分銅などの製造を行いました。親孝行するために必死に働きましたが、願いかなわず独立前後に両親を亡くしてしまいました。
この頃の日本ではコレラが流行していました。コレラとは、衛生環境の悪さや肉魚などの加熱不足、コレラ菌に汚染された食品などが原因で引き起こされ、過去200年間の間に7回もパンデミック(世界的大流行)を引き起こしている感染症です。コレラは水を介して感染し、コレラ菌が体内で繁殖することで下痢や高熱などを引き起こします。コレラの致死率は場所によってなんと8割を超えることもあったほど、恐ろしい感染症です。現在日本でコレラに感染することは非常に稀ですが、アフリカやアジアなどでも特に衛生環境が悪い一部地域などでは今も流行が続いています。
当時の日本でも上下水道のインフラは整っておらず衛生環境が悪かったことからコレラが流行していました。そのため衛生環境を整えるために上下水道インフラの整備が急がれていました。このときに水道管で使用されていた鉄管は輸入品を利用しており高価なものでした。そこで権四郎は、「高価な輸入品に頼らず、自分たちで造れるようにしよう!」と考えるようになりました。

久保田権四郎の生涯(国産の鋳鉄管製造の成功)
国内の衛生環境を改善に繋がる上下水道インフラの整備に向けて、国産の鋳鉄管を利用することに決定しました。しかし、これまで輸入品に頼っていたことから、日本に過度な水圧に耐えられる鋳鉄管を製造する知識はありませんでした。そのため、鋳鉄管の不良品が続出し結局海外からの輸入品に頼らざるを得ない状況が続いていました。
明治26年(1893年)、権四郎も国産の鋳鉄管製造の研究開発を開始しました。これまで数多くの企業が鋳鉄管製造から撤退していたため、容易なことではないと考えていたそうです。しかし同時に、「海外で造れて日本に造れないわけがない」という想いがあり彼を突き動かしてくれていました。
水道管に使用される鋳鉄管には、強い水圧に耐えられるだけの強度が必要です。従来の国産鋳鉄管にはその強度が不足していました。それはどうしてなのでしょうか。理由は金属を冷やし固める過程にありました。鋳鉄管の金属を冷やし固める過程で、金属は重力によって下へ下へと力を受けます。そのため鋳鉄管の下側が分厚くなり、上側が薄くなってしまっていました。権四郎はこの問題を解消できればいけると確信していました。
明治33年(1900年)、権四郎は「立込丸吹鋳造法」を発明しました。この製法によって、ついに強度が強く合わせ目のない鉄管を安定して製造できるようになりました。4年後の明治37年(1904年)、「立吹回転式鋳造装置」を開発しました。この装置によって丈夫な鋳鉄管の量産が可能となりました。立吹回転式鋳造装置は特許を取得し、その後の日本では水道管について輸入品に頼る必要がなくなり、日本の上下水道インフラが整備しやすくなりました。
その後なんと日本全国の水道管の6割以上も製造をしました。安定して水道管を作れるようになり、上下水道インフラが整備され日本の衛生環境は著しく向上していきました。それと併せて海外展開も進めていきました。
太平洋戦争が始まり、事業は困難を極めましたが終戦後には再び積極的に動きました。権四郎は、終戦後の貧しい環境においては食料が大切だと考えました。そこで農業の機械化に目を向け、株式会社クボタを作り農業の発展にも貢献しました。
権四郎は70件以上もの特許を取得し、学校の建設にも携わるなど広く社会に貢献してくれました。
昭和34年(1959年)11月11日、久保田権四郎は89歳でこの世を去りました。
権四郎は様々な功績が称えられ、大正12年(1923年)には紺緩褒章、大正17年(1928年)には緑緩褒章、昭和18年(1943年)には勲五等瑞宝章、昭和28年(1953年)には藍緩褒章、昭和34年(1959年)には正五位勲三等旭日中緩章などを受賞しました。
彼が研究を重ねてくれたおかげで世界トップクラスの衛生環境をもつ今の日本があります。

今回は国産の鋳鉄管製造に成功した人物、久保田権四郎の生涯を振り返ってきましたが、いかがだったでしょうか。「海外旅行で水道水を飲むとお腹を壊すよ」とよく言われます。しかし、もしかすると「日本では水道水を飲んでもお腹を壊さないらしいよ」の方が正しいかもしれません。こんなにも衛生レベルが高く安心して生活できるのは、上下水道インフラが整っているからです。そしてそれは久保田権四郎が国産の強度が強い水道管を安定して製造できるように研究してくれたからです。水道水が安全なのは実は世界で見ても珍しく、日本が誇れるポイントの一つです。日本では当たり前だったことが実は世界的にはとてもレベルが高いことだったなんてことは他にもあります。私たちの快適な生活は先人たちの努力によって生まれたものであるという感謝を忘れないようにしましょう!

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