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【SKIPの知財教室(IP Hack)】電気式炊飯器の発明家 三並義忠(株式会社サンコーシャ創業者)

2022.05.06

SKIP

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらは全て先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。私たちが毎日のように食べているご飯は、お米を簡単においしく炊ける電気炊飯器があるからです。水を入れてボタンを押せば自動で炊けるため、「失敗した!」なんてことはほとんどないのではないでしょうか。この電気炊飯器を世界で初めて発明したのが日本の発明家、三並義忠(みなみよしただ)でした。電気炊飯器がないころはお米を炊くだけでも大変な作業であり、多くの主婦は時間をとられていました。しかし、彼が電気炊飯器を発明し自動でお米を炊くことが出来るようになり、日常的な食事の準備が非常に楽になりました。この炊飯器の登場により、「世の中の主婦たちの睡眠時間が1時間伸びた」とまで言われています。そして日本の電気炊飯器は国内のみならずお米を食べる諸外国でも高い評価を獲得し、なんと5億個もの販売実績を誇っています。そこで今回は電気炊飯器を発明した人物、三並義忠の生涯を振り返っていきましょう。

三並義忠の生涯(電気式炊飯器開発までの苦労)

私たちが毎日のように食べているご飯ですが、とても簡単においしく炊くことが出来ます。そしておそらくほとんどの家庭で電気炊飯器を使用してご飯を炊いているのではないでしょうか。電気炊飯器のおかげで簡単においしいご飯を食べることが出来ています。今回は電気炊飯器を発明した日本人発明家の三並義忠の生涯を振り返っていきます。三並義忠は明治41年(1908年)の1月8日、愛媛県新居群中萩村(現在の愛媛県新居浜市)に誕生しました。義忠は地元の小学校に通い、その後地元の農業学校に進学しますが、中退しました。そして義忠は鉄道省(戦後の日本で鉄道に関する業務を管轄していた国家行政機関の一つ。運輸省、国土交通省、公共企業体日本国有鉄道、JRグループの前身)に入省しました。入省後、鉄道機関士を目指していた義忠は、仕事の傍ら大阪市立都島工業専修学校(現在の大阪市立都島第二工業高等学校)へ進学し学びを深めました。しかし、義忠は昭和3年(1928年)に鉄道省を退職しました。鉄道省退職後すぐに上京し、工学を学ぶために芝浦工学校(現在の芝浦工業大学)に進学し卒業しました。そしてドイツに拠点を置く機械の専門商社アンドリュウス社に入社しました。その後義忠は、会社で働きながら工学の研究を継続しました。昭和9年(1934年)、義忠は後に炊飯器で大成功を収めることとなる光伸舎を設立しました。ところが昭和20年(1945年)頃、戦後だった日本は悲惨な状況にありました。それは義忠も同じで仕事が大きく減り、妻と6人の子供を養っていながら工場は倒産の危機に追い込まれていたそうです。

そんなある日、東芝のある営業担当者から声がかかりました。「電気式の炊飯器を作ってくれますか?」との依頼で、義忠は挑戦してみることになりました。しかし、電気式炊飯器の開発は簡単なものではないと想定されていました。実は、義忠が依頼される前から一流メーカーも電気式炊飯器の開発を試みながら、失敗に終わっていたからです。さらに、東芝から研究開発費用を受け取ることはできないという状況でした。電気式炊飯器の開発を依頼されたことを義忠が妻の風美子に話すと、絶賛してくれたこともあり、義忠は挑戦を決意しました。それからは妻に協力を志願し、二人で電気式炊飯器の開発に尽力することになりました。義忠がはじめに取り掛かったのは、米が炊ける原理の勉強でした。義忠が料理研究家などからの助言を得て、妻・風美子が1日になんと20回もの米を炊く日々がスタートしました。こんなにも米を炊き続ければ、もちろん三並家の米も底を尽きてしまいます。米がなくなってからは、自宅と工場を担保にして借金をし、1 t以上もの米を手に入れたそうです。

そのような環境の中何度も失敗を繰り返しながら研究を継続していきました。義忠は高温になると電源が切れる仕組みを考案しました。ここで目を付けたのが、高温状態で湾曲する性質を持つバイメタルでした。実際に98度以上を保ちながらスイッチが切れればいけるかもと仮説を立て、失敗。外気が低くてもおいしく炊けるようにと台所以外に庭先や屋根上、廊下などでも実験をすると、外気のせいでスイッチが切れないなんてこともありました。また、研究途中には過労により、風美子が体調を崩すこともありました。しかし、「世の中の主婦たちのためになんとしても電気式炊飯器を作りたい」という風美子の強い想いがあり、義忠たちは研究を継続しました。そして4か月間米を美味しく炊く研究を継続した結果、ついに最適解を導くことに成功しました。昭和30年(1955年)、妻・風美子と東芝社員の協力もあり、義忠は電気式炊飯器の開発に成功しました。電気式炊飯器開発の成功のカギとなったのが、以下の2点です。1つ目が熱気蓄熱室を構成する外装で炊飯器の釜を覆うこと、2つ目が加熱水の蒸発が終了したことを検出する熱応動器を利用したタイマー機能です。これらの工夫によって外気温に影響を受けることなく、一定の温度を保ちながらご飯が炊ける炊飯器を作り上げました。その後炊飯器のデザインを考え、昭和32年(1957年)に電気式炊飯器の特許を出願しました。そして義忠は電気式炊飯器で特許を取得しました(第5987号)。

三並義忠の生涯(電気式炊飯器の爆発的な普及)

電気式炊飯器は東芝から昭和30年(1955年)の12月に販売が開始されました。電気式炊飯器は簡単で美味しいご飯が出来ると評判になり、瞬く間に大ヒットを納め最高月産20万台販売を記録しました。そして電気式炊飯器は日本中の家庭で当たり前のように使用されるようになり、販売から4年が経った昭和34年には国内の家庭での普及率が半数にまで上りました。日本のみならず世界でも電気式炊飯器が認められ、なんと世界で5億個も販売されるなど大ヒットしました。義忠が世に残した功績が称えられ、昭和34年(1959年)に第一回科学技術賞を受賞しました。昭和41年(1966年)9月1日、三並義忠は58歳という若さでこの世を去りました。

義忠が電気式炊飯器を発明するまでの日本では、米を炊くという行為が今と比べて非常に大変なものでした。そのため日本中の主婦たちは米を炊くことに多くの時間を割かれていた現状がありました。電気式炊飯器の普及により「世の中の主婦たちの睡眠時間が1時間伸びた」とまで言われているほど、義忠は画期的な発明をしました。平成13年(2001年)には、NHK総合テレビジョンのプロジェクトX~挑戦者たち~「倒産からの大逆転劇 電気釜 ~町工場一家の総力戦~」として、電気式炊飯器の開発に至るまでが特集されました。義忠が設立した光伸舎は、昭和60年(1985年)に山光社と合併しました。現在は株式会社サンコーシャとして、電気通信機械製造販売業を行う大企業へ成長し日本を支えています。

今回は電気式炊飯器を発明し、日本の食卓に変革をもたらした日本の発明家、三並義忠の人生を振り返ってきましたが、いかがだったでしょうか。日本の家庭ならだれもが持っているであろう電気式炊飯器。これを開発するまでにはとてつもない苦労があったことがわかりました。電気式炊飯器の誕生により、私たちは失敗することなく簡単においしいご飯が作れるようになりました。現在も様々な場面で「面倒だ」「大変だ」と感じることがあるかもしれません。しかし、今後そのようなことがなくなるような画期的な発明が生まれてくることでしょう。今後どのような世の中になっていくのか楽しみですね。

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