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【SKIPの知財教室(IP Hack)】無線式テレビ受信機の発明家 高柳健次郎(日本ビクター副社長)

2022.04.15

SKIP

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらは全て先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。毎朝のニュースや夜のバラエティなど様々な場面で私たちの生活に密着しているのがテレビです。超薄型テレビが主流となった現在、知らない方には想像がつきにくいかもしれませんが、十数年前までは「ブラウン管テレビ」という箱型のテレビが一般的でした。数十年前のテレビの技術が発展途上だったころ、「今後テレビは電子式になるはずだ」と確信し研究を重ねた人物がいました。その方が高柳健次郎(たかやなぎけんじろう)です。彼は、無線式テレビ受信機の開発へとむけて研究を続け、昭和3年(1928年)に特許を取得しました。その後は白黒のテレビ放送の開始、ビデオテープレコーダーの完成、カラーテレビの放送開始など日本のテレビ技術に大きく貢献しました。そこで今回は無線式テレビ受信機を開発し、テレビの普及に大きく貢献した日本の発明家、高柳健次郎の生涯について振り返っていきます。

 

高柳健次郎の生涯(世界初の無線式テレビ受信機の発明まで)

高柳健次郎は無線式テレビ受信機を開発したことで有名となった、日本を代表する発明家・工学者です。後に彼の功績が認められ、文化勲章を受章し、「日本のテレビの父」とまで呼ばれた人物です。ここでは高柳健次郎の生涯を振り返っていきましょう。

高柳健次郎は、明治32年(1899年)に静岡県浜名郡和田村(現在の静岡県浜松市東区安新町)で誕生しました。健次郎の家庭は決して裕福ではありませんでしたが、家族の支えがあり立派に進学していきました。そして学校に行くようになってからは、「あきらめないで」「社会に役立つように」などの教えと共に、熱心に勉学に励んだそうです。

学生時代の健次郎は、静岡師範学校(第二次世界大戦中に静岡県に設置された初等・中等教員養成を目的とする学校)にて学びを深めました。大正10年(1921年)には東京高等工業学校(現在の東京工業大学)の付設工業教員養成所を卒業しました。同年には神奈川県立工業学校(現在の神奈川県立神奈川工業高等学校)の教諭として採用されました。

3年後の大正13年(1924年)には浜松高等工業学校(現在の静岡大学工学部)の助教授となり研究活動を開始しました。この時に研究対象として興味があったのが、「無線遠視法(テレビジョン)」であり、後の発明のきっかけでした。

その後健次郎は浜松工業学校でテレビ技術に関する研究を継続しました。当時のテレビは機械式が一般的でした。しかし、テレビでより柔軟に表現するとなると「機械式のままでは難しい」と限界を感じていたそうです。それと同時に健次郎は、「今後テレビは電子式になるはずだ」と確信していました。幼いころから「諦めないこと」「社会に貢献すること」の大切さを教わっていた健次郎は、なんとか電子式のテレビで結果を残すべく研究に尽力し続けました。

研究を続けること5年、大正15年(1926年)のことでした。大正天皇が崩御された12月25日、時を同じくして健次郎はブラウン管を用いた電送・受像に成功し、世界初の快挙を成し遂げました。

ブラウン管とは陰極線管という種類の真空管を応用して作られている装置の名称です。簡単に言い換えると、『電子銃から放出された電子群を電子ビームに変換させ、電界や磁界で加速させ電子流速させることで、方向性を整えた電子群が蛍光面に照射し発行させて図像を表示する(Wikipediaより部分的に引用)』装置です。ニプコー円盤と呼ばれる部品を送像側に使用し、ブラウン管を受像側に使用しました。その装置によって雲母板上に書かれたカタカナの「イ」の文字を送受像したそうです。このとき、画面を構成する輝度・色相及び彩度を表す走査線の本数は40本でした。

かねてからブラウン管に目をつけていた健次郎はテレビ本体にブラウン管を使用することで、ついに無線式テレビ受信機の開発に成功しました。世界初の電子映像表示装置(ディスプレイ)の発明に成功し、翌年昭和2年(1927年)にはこの無線式テレビ受信機を特許出願し翌年の昭和3年(1928年)に取得しました(特許第77293号)。

 

高柳健次郎の生涯(無線式テレビ受信機の発明後の偉業の数々)

健次郎が無線式テレビ受信機の発明後は、1927年(昭和2年)フィロ・ファーンズワース(アメリカの発明家)によって電子式テレビジョンの特許が申請されました。さらに、6年後の1933年(昭和8年)にはウラジミール・ツヴォルキン(ロシア系アメリカ人の発明家)によってアイコノスコープ(撮像管)が発明されました。このアイコノスコープには、健次郎が発明した受信機に使用されたブラウン管方式が採用されていました。健次郎の発明が世界中の発明家を刺激し、世界的にテレビ技術が大きく向上したことが分かるのではないでしょうか。

昭和12年(1937年)、健次郎はNHKに技術研究所テレビジョン担当部長として出向することになりました。このときNHKは、昭和15年(1940年)に開催が予定されていた「1940年東京オリンピック」のテレビ放送を目指していました。その目標達成のため、テレビ受像機に関する研究を本格化させる場として健次郎が出向しました。1940年東京オリンピックは、欧米諸国以外での開催が初となるアジアでの五輪だったため注目を集めいていたそうです。

しかし、残念なことに昭和13年(1938年)の日中戦争が激化したことによって、軍部から東京五輪開催の反対意見が多数挙がっていました。苦渋の決断でしたが、日本政府が五輪の開催権を返上したため、実現には至らず幻の東京五輪となりました。これは同時に健次郎に開発が期待されていたテレビも活躍の場を失ったことになりました。

中止の決定後もテレビの研究は継続し、健次郎らは昭和14年(1939年)に電波実験にも成功していました。しかし第二次世界大戦(1939-1945)の激化に伴って、昭和16年(1941年)健次郎はテレビの研究を一次中断、レーダーや奮龍の誘導装置に関する研究を始めることになりました。

終戦後の昭和21年(1946年)には日本ビクターに弟子たちと一緒に入社しました。そこでは健次郎が中心となって、NHK、シャープ、東芝との共同研究によりテレビ放送技術とテレビ受像機を完成させました。昭和24年(1949年)にはテレビジョンの放送開始を実現、昭和34年(1959年)にはビデオテープレコーダーが完成、昭和35年(1960年)にはカラーテレビの放送開始と国内のテレビ技術が格段に成長した時代でした。

健次郎は彼の功績が認められ、昭和30年(1955年)4月には紫緩褒章受章、昭和49年(1974年)には勲二等瑞宝章受章、昭和55年(1980年)には文化功労者彰を受賞、昭和56年(1981年)には文化勲章受章など数多くの賞を受賞しました。加えて、昭和45年(1970年)には日本ビクター代表取締役副社長、昭和48年(1973年)には日本ビクター技術最高顧問に就任、1987年(昭和62年)には米国アラバマ州立大学の名誉教授、翌年の1988年(昭和63年)には米国映画テレビ技術者協会(SMPTE)名誉会員に推挙されました。このように数多くの賞を受賞し数々の代表を経験するなどしました。

平成2年(1990年)7月、肺炎が悪化し高柳健次郎は91歳でこの世を去りました。

健次郎は数多くの功績を残し、取得した特許件数は合計で13件、実用新案1件に上ります。健次郎の発明が世界的にも評価され、2009年(平成21年)、電子式テレビジョンの開発が米国電気電子学会によってIEEEマイルストーン(IEEEが電気・電子・情報技術やその関連分野の歴史的偉業に対して行う顕彰活動)に認定されました。

 

今回は無線式テレビ受信機を世界で初めて発明した人物、高柳健次郎の生涯を振り返ってきましたが、いかがだったでしょうか。もしも彼がテレビの研究をしていなかったら、今のようなテレビが発明されることはなかったかもしれません。現在では日常すぎて特に何も感じることはないかもしれませんが、彼を中心とした世界中の研究者が研究を重ねたため、今の快適な生活があります。このように発明品の起源を少し知るだけでも身の回りの物事への見方は変わってくるのではないでしょうか。今後どのような発明が誕生するのかとても楽しみですね!

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