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【SKIPの知財教室(IP Hack)】シャープペンシル+初の国産ラジオの発明家 早川徳次(シャープ創業者)

2022.04.07

SKIP

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらは全て先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。私たちが勉強するときや何かメモを取るときなどに使用するのがシャープペンシルです。シャープペンシルと同様の筆記用具として鉛筆やボールペンがあります。シャープペンシルはこれらの製品と比較して、芯の入れ替えで使用し続けられることや消しゴムが使用できる点から多くの方に使用されています。また、近年では1本数千円するような高級シャープペンシルも登場するなど、活躍の幅を広げている筆記用具のひとつです。そんなシャープペンシルを発明したのが、なんと日本人の発明家、早川徳次(はやかわとくじ)でした。彼は「鉛筆を改良してより良い製品が創れるのではないか」と考えました。何度も研究を重ね欧米からもシャープペンシルの価値を認められ、シャープペンシルの実用化に成功しました。その後は、ラジオの国産化など家電にも力を入れるようになり、現在のシャープ株式会社に成長させました。そこで今回は、シャープペンシルを発明した人物の早川徳次の生涯を振り返っていきます。

早川徳次の生涯(幼少期から商売を経験)
早川徳次はシャープペンシルを発明した日本の発明家であり、世界的にもリーディングカンパニーとなった大手日系家電メーカーのシャープ株式会社創業者でもあります。ここではそんな日本を代表する発明家の早川徳次の生涯を振り返っていきましょう。
早川徳次は明治26年(1893年)に東京市日本橋区久松町(現在の東京都中央区日本橋久松町)に生まれました。徳次の家はちゃぶ台製造を行っており、生計を立てていたそうです。ちょうど徳次が誕生したころは、副業として取り組んでいたミシン縫製業が繁盛していました。しかし、仕事が大変だったことから徳次の母・花子が病気になってしまいました。そのため徳次は生後1年11カ月で早川家に出入りしていた肥料屋の出野家の養子となりました。
出野家の養子となった2年後の明治30年(1897年)、養母は急死してしまい後妻を迎えることになりました。しかし、この継養母は徳次にきつく当たり食事もしっかりと与えないような人物だったようです。
その後徳次は尋常小学校(明治維新から第二次世界大戦勃発までの時代に存在した初等教育機関)に入学しましたが、たったの2年で中退することになり、昼夜マッチ箱張りの内職を手伝う生活を送っていました。しばらくして徳次の生活をかわいそうに思った近所の盲目女性・井上せいのサポートのおかげで、錺屋(かざりや:金属細工業)職人だった、坂田芳松の元で丁稚奉公(幼少者が職人の下で働くこと)することになりました。その影響により、徳次は幼いころから働き商売を覚えていきました。そして同時に、情が厚かった錺屋の職人から金属加工に関する知識を吸収していったそうです。最終的に7年7カ月もの期間、錺屋の職人の下で商売を手伝っていました。
ある日、徳次が映画を鑑賞している際に目についたのが「だらしないベルト」でした。このだらしないベルトを何とかしたいと考えた徳次は、穴をあけずに使用できるベルトのバックル「徳尾錠」を考案しました。彼の初めての発明品であり、穴のないベルトは実用新案に登録されました。そしてこのベルトが好評であり、33グロス(4,752個)もの注文を受けることになりました。大正元年(1912年)、この大量発注を機に徳次は金属加工業として独立を果たしました。
独立後の大正2年(1913年)には、新たに水道自在器(蛇口、5号巻島式水道自在器)を発明し特許を取得しました。また同時期に徳次は結婚し、過去に生き別れた兄とも再会するなど、人生におけるターニングポイントとなりました。そして兄と一緒に仕事を共にするようになり、徳次が製品の開発担当、兄が営業を担当しました。

早川徳次の生涯(シャープペンシルの発明とその後)
しばらくして徳次は金属文具を扱うようになり、万年筆の金属部分やクリップ、金輪の製造を行っていました。その際の取引先の1社だった「プラム製作所」から、くりだし鉛筆(後のシャープペンシル)の部品を作ってほしいとの依頼を受けました。この依頼が徳次の人生を大きく変える転機でした。
実は徳次がシャープペンシルを発明する以前から、くりだし鉛筆というシャープペンシルの原型となる筆記用具が存在していました。しかし、このくりだし鉛筆はセルロイド製で壊れやすい製品でした。その現状に対して徳次は、「もっと工夫したらいい物になるはずだ」と確信し、シャープペンシルの開発に尽力するようになりました。
その後徳次はシャープペンシルの研究を続け、内部に真鍮(別名黄銅、銅と亜鉛の合金)の一枚板部品を使用し、外装にはニッケルメッキを使用した金属軸とする製品を発明しました。この製品の誕生によって実用性を兼ね備えた壊れにくさと高い装飾性を実現しました。
大正4年(1915年)、兄と「早川兄弟商会金属文具製作所」を設立しました。そして完成したシャープペンシルを「早川式繰出鉛筆」として特許を申請し、兄とともに販売を開始しました。しかし、「和服と使用するには合わない」「金属が冷たい」などの理由により、全く売り上げは伸びなかったようです。
その後も売れないながらも、銀座の文具店で試作品を置き続けると状況が変化してきました。第一次世界大戦(1914-1918年)で文具が品薄となっていたため、欧米で早川式繰出鉛筆が売れるようになりました。そして、なんと海外からの評判は良く人気が出始め、少し遅れて日本国内でも注文が殺到し始めました。
そして海外輸出向けシャープペンシルなども開発し、売り上げは好調でした。大量生産に向けて工場を建設し、順調な成長を見せていましたが、大正12年(1923年)9月1日、関東大震災が発生しました。この地震は死者・行方不明者は推定で10万人を超え、甚大な被害をもたらしました。徳次の妻・文子は幸い一命をとりとめましたが、2人の子供を亡くし、順調に売り上げを伸ばしていた事業の拠点だった工場も焼け落ちてしまいました。その現実に対し徳次は兄と相談の末、早川兄弟商会を解散することを決めました。早川兄弟商会の事業を日本文具製造に譲渡することを決意し、大正12年(1923年)に単身大阪へと渡りました。
大阪へ渡った後、徳次は新たに「早川金属研究所」を設立し、海外から輸入されていたラジオに興味を持つようになりました。そして「ラジオは世の中を変える機械だ」と感じ、海外製のラジオを分解して研究し続けました。そしてついに大正14年(1925年)、初となる国産のラジオ開発に成功しました。その後徳次は、テレビなど多くの家電を手掛けるようになりました。
徳次は「商売のコツは早く始めること」「マネされる商品を作れ」と言葉を残し、多くの商品の開発に携わりました。昭和45年(1970年)、当時の早川電気工業株式会社から「シャープ株式会社」へと社名変更を行いました。
昭和55年(1980年)、6月24日早川徳次は86歳でこの世を去りました。
彼が作り上げた会社は今やシャープ株式会社として世界中で有名になり、日本を代表する企業へと成長しました。シャープペンシルをはじめとする彼が発明した製品のおかげで、私たちの生活が豊かになったことは言うまでもありません。

今回はシャープペンシルを発明し、その後多くの家電製品の開発に携わった日本の発明家であり、シャープ株式会社創業者の早川徳次の生涯を振り返ってきましたが、いかがだったでしょうか。幼いころから苦労が絶えない生活の中で、なんとか強い想いを持ち続け研究に尽力してくれたからこそ、多くの発明品が誕生しました。そしてそれらは私たちの生活を非常に豊かにしてくれています。今ある非常に多くの製品がこのような苦労の末誕生したモノだと知るだけで、世の中への物事への見方が変わってくるのではないでしょうか。これから新たにどんな発明が生まれるか非常に楽しみですね!

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