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【SKIPの知財教室(IP Hack)】二股ソケットの考案者 松下幸之助(松下電器(パナソニック)グループ創業者)

2022.03.25

SKIP

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらは全て先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。今や多くの家電メーカーなどから様々な電化製品が販売され、非常に便利な世の中になりました。しかし、もちろんそれらはほんの数十年前には想像もつかないような世界でした。まだ今のように産業が発展していない時代に、電球のソケット改良から始め、その後多くの特許を取得するまでに活躍した人物がいました。それは日本の発明家・実業家で松下電器グループを作り上げた人物、松下幸之助(まつしたこうのすけ)です。彼は様々な製品において特許を取得し複数の会社を作り、日本の産業発展に大きく貢献しました。そして彼の異名は「経営の神様」と呼ばれるまででした。松下幸之助が作り上げた会社は現在、日本のみならず世界におけるリーディングカンパニーとなったパナソニックに成長しました。そこで今回は日本の産業発展に著しく貢献した、日本を代表する発明家の松下幸之助の生涯について振り返っていきましょう。

松下幸之助の生涯(幼少期と大阪での商売)
松下幸之助は日本を代表する実業家・発明家で、生前には数多くの素晴らしい製品を世の中に残してくれた人物です。なんと特許8件(行政機関が特定人のために権利・能力・資格などを設定し、法律上の地位を与えること)、実用新案は92件(特許と似ているが保護の対象が「物品の形状、構造又は組み合わせに係る考案」に限られる制度)も取得しており、日本の産業発展に大きく貢献してくれました。ではそんな松下幸之助の生涯を振り返っていきましょう!
松下幸之助は、明治27年(1894年)の11月27日に和歌山県海草郡和佐村千旦ノ木(現在の和歌山市禰宜)で、小地主だった松下政楠ととく枝の下に3男として誕生しました。明治32年(1899年)ごろ、幸之助の父は米相場(江戸時代における米の先物相場のこと)で失敗し破産してしまいました。そのため、幸之助の一家は和歌山市本町1丁目に引っ越すことを余儀なくされ、その後は下駄屋で生計を立てていくことになったようです。
当時幸之助は尋常小学校(明治維新から第二次世界大戦勃発までの期間に存在した現在で言う小学校)を4年で中退しました。そして学校を中退した9歳の幸之助は、宮田火鉢店で弟子として働くこととなりました。その後、宮田火鉢店を辞め、五代自転車に移り働き始めました。幼いころから商売をしていたため、幸之助は商売上手だったそうです。
五代自転車で商売をしていた当時の面白いエピソードをひとつご紹介します。幸之助は自転車店で働いていたころ、たびたび来店客からタバコを買ってくるようおつかいを頼まれていたそうです。何度も行くのが面倒だと思っていた幸之助は、「タバコをまとめ買いすれば、単価も安くすぐにお客さんに出せる」と考え、しばらくの間まとめ買いをしていました。幸之助はこの方法で差額を着服していましたが、丁稚仲間から反感を買ったようで、自転車店の店主からやめるよう説得されたそうです。このエピソードを聞くと当時から経営に対して頭が良かったことがうかがえますよね。
幸之助は当時働いていた大阪で、路面電車を見てとても感動したそうです。これがきっかけとなり、「自分もいつが電気に関わる仕事をしたい」と感じました。そして電気関係の職人を目指し、働いていた自転車店を辞める決意をしました。

松下幸之助の生涯(ソケットの開発から多くの家電製品の製造販売まで)
幸之助が五代自転車店を辞めた後には、大阪電灯(現在の関西電力)に入社を果たし、「電気関係の仕事に携わりたい」という夢を叶え、16歳のときから7年間従事しました。幸之助が大阪電灯に勤めていた当時、電球は自宅で直接電線を引く方式が採用されていました。そのため、電球の取り外しにおいても専門知識が必要となるほどの危険な作業だったようです。そこで「簡単に取り外しができるようにしたい」と考えた幸之助は、電球ソケットの考案をしました。
その後もソケットの改良を考えていましたが、なかなか認めてもらえませんでした。大正6年(1917年)に幸之助は独立し松下式ソケットとして研究を開始しました。ソケットの考案に関しては、幸之助と妻のむめの、その弟の井植歳男、さらに友人2名の合計5人で尽力していました。そして、彼らでソケットの製造販売に着手しましたが、こちらも簡単なことではなく、新型ソケットの売り上げはよくなかったようです。
ソケットの売り上げが伸び悩んでいたころ、川北電機(現在のパナソニックエコシステムズ)から扇風機の部品を大量に受注しました。そしてその部品が完成したことによって、幸之助たちは窮地を脱したそうです。翌年の大正7年(1918年)には松下電気器具製作所(後のパナソニック)が設立されました。さらにその後は、アタッチメントプラグや二灯用差し込みプラグ(いわゆる二股ソケット)がヒットしたことによって、幸之助のビジネスは波に乗り始めました。
その後は松下電気器具製作所にて、カンテラ式で取り外しが可能な自転車用の「砲弾型電池式ランプ」を考案し、1925年には「ナショナル」商標として使用開始されました。これらのヒット製品によってさらに乾電池にも着手するなど事業拡大していきました。これらのヒット商品を生み出していくうちに、世の中からは「新しくて便利なものを作る会社だ」と認知されるようになっていきました。
幸之助は乾電池事業を継続し、電池箱があると便利だと感じるようになりました。そして昭和2年(1927年)、ついに「電池ばこ」を作り上げました。この「電池ばこ」で特許申請をし、幸之助にとっての初の特許取得となりました(特許登録第72030号)。
昭和4年(1929年)には松下電器製作所へと改名されました。その後は家電製品を中心として、次々と製造販売を行っていきました。昭和32年にはさらに拡大するために、幸之助自らが巡回し自社の製品販売要請に応じた小売店を自社系列電器店網へ組み込み、「ナショナルショップ(後のパナソニックショップ)」を誕生させました。これは、日本で初となる系列電器店ネットワークでした。ナショナルショップはピーク時にはなんと2万7千店を誇るほどの国内最大級の系列電器店ネットワークへと成長していきました。
昭和48年(1973年)、幸之助が80歳になったことを区切りとして現役を引退しました。翌年昭和49年(1974年)には奈良県明日香村の名誉村民となりました。
平成元年(1989年)に気管支肺炎によって94歳でこの世を去りました。彼は生前に取得した特許が8件、実用新案はなんと92件にも上ります。彼が作り上げた会社は現在パナソニックとして世界的にも大きな企業に成長しました。日本がこれだけ発展したのは、生前に彼が様々な製品開発に尽力し続けてくれたからに違いないでしょう。

今回は日本の産業発展に非常に大きく貢献した日本を代表する実業家・発明家の松下幸之助の生涯を振り返ってきましたが、いかがだったでしょうか。幸之助はなかなか売り上げが伸びなかったソケットの開発から、様々な家電製品を製造販売するまでに成長した人物でした。多くの苦労がありながら自分の興味関心を追求し世の中に貢献できる製品の開発に従事し続けてくれていました。そして今では世界を代表するリーディングカンパニーであるパナソニックへと成長し意思が引き継がれています。幸之助の功績は計り知れず、彼がいなかったとすればどのような世の中になっていたか想像もつかないくらいかもしれません。彼のような偉大な人物のおかげで今の生活があると考えると、多くの物事への見方が変わってくるのではないでしょうか。今後の発展がとても楽しみですね

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