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【SKIPの知財教室(IP Hack)】外国人にも特許法の保護を拡大した 井上馨(外務大臣、農省務大臣、内務大臣、大蔵大臣を歴任)

2022.03.18

SKIP

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらは全て先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。また、私たちの生活がこれほどまでに豊かになったのは発明品を保護し、産業の発展に寄与させる制度である「特許法」が定められているからです。日本の特許制度の基盤は、既に特許法が執行されていた欧米の内容をベースに作られ、日本で執行されていました。日本での執行当初、特許法の対象となっていたのは日本人のみでした。そのため外国製品の偽造や模倣品に関して法律上の制限はない状況でした。つまり、日本へ製品を輸出している外国の発明家にとって自分の製品が日本で勝手に複製される恐れがあったという状態でした。この状態が続けば模倣を恐れて日本への輸出を拒むことが想定され、輸出品が入ってこない事態に陥る危険性があると指摘した人物がいました。その人物が井上馨(いのうえかおる)です。その後、彼が特許法の対象を外国人にまで拡大させるために尽力しました。彼が特許法の対象者拡大に動いたからこそ、外国から貴重な技術が正規のルートで国内に入るようになり、産業の発展に貢献しました。そこで今回は特許法の対象を外国人にまで拡大させた井上馨の生涯を振り返っていきます。

井上馨の生涯(幼少期)
井上馨は、明治・大正期に活躍した日本の政治家であり、当時日本人にしか適用されていなかった特許制度を外国人にも範囲を拡大するのに尽力した人物です。今回はそんな井上馨の生涯を振り返っていきましょう。
井上馨は、天保6年(1836年)に長州藩士であった井上光亨(五郎三郎、大組・100石)と房子(井上光茂の娘)の次男として、周防国吉敷郡湯田村(現在の山口県湯田温泉)に誕生しました。
嘉永4年(1851年)には馨の兄・井上光遠(五郎三郎)と一緒に藩校(長州藩が運営していた学校)に入学し、勉強したそうです。その後、安政2年(1855年)には長州藩士志同道氏(大組・205石)の養嗣子となりました。そしてその頃は志道聞多(しじ ぶんた)と名乗っていたようです。幕末の志士には身分の低い出身の人が多くいましたが、馨は比較的毛並みのいい中級の武士でした。
その年の10月には、藩主であった毛利敬親の江戸参勤について行き、江戸で伊藤博文(日本の初代内閣総理大臣)と出会います。その後は、岩屋玄蔵や江川英龍(江戸時代後期の幕臣で伊豆韮山代官)、斎藤弥九郎(江戸時代後期から幕末にかけての剣術家)らの下で蘭学(オランダから伝わったヨーロッパの学問・文化・技術)に対して学びを深めました。万延元年(1860年)には、桜田門外の変の余波により長州藩も警護を固めざるを得なくなりました。そのため、敬親の小姓(武士の職の一つ)となり通称の聞多を与えられました。そしてその年に敬親に従って帰国することとなりました。さらに敬親の西洋軍事訓練にも参加し、2年後の文久2年(1860年)には敬親の養嗣子毛利定広(のちの元徳)の小姓役などを務めたのち、再び江戸に移ったそうです。

井上馨の生涯(不平等条約と専売特許条例の関係)
安政5年(1858年)、日本と米国の間で結ばれた条約が、ご存知の通り日米修好通商条約です。この日米修好通商条約には以下の2点で不平等条約と認識されていました。1点目が「アメリカ側に領事裁判権を認めること」です。これは、たとえアメリカ人が日本で罪を犯したとしても日本の法律によって裁くことが出来ず、アメリカの法律によってのみ裁判を受けることを認めるという内容です。2点目は「日本に関税自主権がないこと」です。これは、日本が外国からの輸入品に対して自主的に関税を決めることが出来ないということです。日米修好通商条約はこのように不平等な内容が含まれていたことから、条約内容の改正のため多くの人が動いていました。それの代表が明治4年(1871年)から明治6年(1873年)まで欧米諸国に派遣された岩倉具視使節団です。岩倉具視使節団は不平等条約改正を目的として結成されましたが、条約改正にまでこぎつけず苦戦していました。
一方、明治18年(1885年)には欧米諸国で確立していた特許制度をベースとして、専売特許条例が公布されました。つまり、日本人が発明をした場合には、「発明品の保護」と「発明家への利益」が保証されるような制度が確立されたことを指しています。専売特許条例が施行されてからは日本において発明が活発となり、産業の発展が加速していっていました。
しかし、当時の専売特許条例の内容が原因となり、問題も発生していました。それは明治20年(1887年)のことです。アメリカのワシントンで、知的財産権の保護について日本に圧力をかける動きが起こっていました。その原因は、アメリカで出版された英語教科書が、日本において無断複製され、公立学校で使用されていたことでした。そこでアメリカの出版社「Messrs. Ivison, Blakeman & Co.」が、日本で複製利用されたことに対して苦情を出しました。苦情を受けてバイヤード国務長官が、ハバード米公使に対応すること、さらにパリ条約加盟を要求するよう指示したためこの問題が発生していました。実際のところ、当時のアメリカでは外国本が許可なく複製されていたことはあったそうです。しかし、アメリカの教科書が日本政府によって大々的に利用されていたことに対して、強い不快感を抱き今回の問題に発展していました。

井上馨の生涯(不平等条約と専売特許条例の改正)
馨は、上記のような問題が発生した根本的な原因は、日本の専売特許条例の対象範囲にあると考えました。当時日本の製品に対しては厳しい規則にのっとって扱われていた一方で、このような外国製品の偽造の取り締まりに法的な拘束力はありませんでした。また、政府は「偽造などを見逃すのは不都合だ」という理由のみで一応取り締まりはされていましたが、日本製品のような明確な保護はしていなかった状態だったようです。
「特許の対応範囲を外国人にまで拡大しなければ、このような問題が今後も発生するに違いない」と馨は考えていました。そしてこのような問題は、海外の発明家たちが日本で模倣や偽造されることを恐れ、革命的な発明品の輸入が滞ることに繋がると指摘していました。
そして、馨は当時特許法の普及に尽力していた高橋是清(初代特許庁長官)に外国人への拡大に関して話を持ち掛けました。同時期に日本が不平等条約に苦しめられていたこともあり、是清からは「不平等条約の改正を求めるための切り札として提案してみてはどうか」という意見をもらったそうです。その後、不平等条約改正と共に特許法の対象者拡大案を進めることになっていきました。
その後は様々な人物が不平等条約改正に向けて尽力したため、一部回復などを含め徐々に不平等条約は改正されていきました。不平等条約が徐々に改正されていったのは、井上馨らが特許法対象者の外国人への拡大を検討したことと深く関係していました。
馨は明治維新後には外務大臣、農省務大臣、内務大臣、大蔵大臣など様々な職を歴任しました。
時は経ち大正2年(1913年)、脳出血で倒れ一命はとりとめましたが、左手に麻痺が残り車いす生活を余儀なくされました。第2次大隈重信内閣を誕生させた直後、大正4年(1915年)7月に体調が悪化し、79歳でこの世を去りました。

今回は特許法の対象者を外国人にまで拡大することに尽力した人物、井上馨の生涯を振り返ってきましたが、いかがだったでしょうか。日本で特許法が確立されたばかりのころ、特許法の対象範囲は日本人のみでした。そのため日本では外国製品と外国の発明家が守られない状況にあり、外国から非難の声が上がっていました。この状況が続くことは日本の産業発展に大きく影響すると危惧したのが井上馨でした。当時苦しめられていた不平等条約の改正と共に特許法の対象範囲拡大に動いたため、今の日本では豊かな暮らしが保証されています。先人たちの努力により今の生活があると知れるだけで、考えさせられるのではないでしょうか。それと同時にこれからの日本がどう変化していくのか、発展が楽しみになりますね。

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