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【SKIPの知財教室(IP Hack)】特許制度の確立に尽力したお公家さん 岩倉具視(岩倉具視使節団を率いて欧米視察)

2022.03.14

SKIP

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらは全て先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。また、私たちの生活がこれほどまでに豊かになったのは発明品を保護し、産業の発展に寄与させる制度である「特許法」が定められているからです。日米修好通商条約が米国と結ばれましたが、その内容は「関税自主権がないこと」「領事裁判権を認めること」など不平等なものでした。不平等な内容を撤回してもらうべく、米国へと足を出向いたのが岩倉具視(いわくらともみ)特命全権大使率いる103名の使節団でした。実はこの時に条約改正までこぎつけられませんでしたが、新たな学びとなったのが「欧米の特許制度」でした。当時の日本には特許制度が確立されていなかったこともあり、欧米から産業発展の面で遅れをとっていました。使節団が欧米を視察して特許制度を目の当たりにしたことで、日本国内でも特許制度確立の声が大きくなっていきました。そして、岩倉具視はその後の専売特許条例の制定において大きく貢献しました。今回は特許制度の確立に尽力した岩倉具視の生涯を振り返っていきます。

岩倉具視の生涯(幼少期と鎖国時代の終了)
岩倉具視はかつて日本の公家(日本において朝廷に仕える貴族・上級官人の総称)や政治家として活躍した歴史上でも有名な人物です。そしてあまり知られていないかもしれませんが、日本の特許制度を確立させるために大きく貢献した人物でもあります。今回はそんな岩倉具視の人生を振り返っていきましょう。
岩倉具視は、公卿(公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位)であった堀河康親の次男として、文政8年(1825年)に京都で生まれました。具視の幼名(幼少期につけられる名前のこと)は周丸(かねまる)でした。しかし、周丸の容姿や言動は公家らしくなく異彩を放っていたようです。そのため、公家の子女たちからは周丸ではなく「岩吉」と呼ばれていたようです。
その後は朝廷に仕えていた伏原宣明(江戸時代後期の公卿・儒学者)に入門し、学びを深めました。そして宣明は周丸を「大器の人物だ」と見抜いたことから、岩倉家への養子縁組を推薦したといいます。天保9年(1838年)には岩倉家の養子となり、具視という名を選定されました。
そして時がたった嘉永6年(1853年)、ペリー率いるアメリカ合衆国海軍インド艦隊の4隻が浦賀(神奈川県横須賀市)に来航しました。ペリーの浦賀来航で日米和親条約が締結され、下田と函館が開港されました。日本の長きにわたった鎖国時代が終了したのはこのときです。これにより水や石炭・食料品などの一部の物品が貿易可能となった一方で、アメリカ側に有利な条件でもありました。そして間もなく欧米列強国の経済的・軍事的進出に対しての抵抗運動が始まりました。

岩倉具視の生涯(不平等条約と岩倉具視使節団の欧米視察)
日米和親条約の締結から4年後の安政5年(1858年)、ハリス(初代在日総領事)によって新たに締結されたのが日米修好通商条約でした。日米修好通商条約は日米和親条約よりもさらに踏み込んだ内容となり、日米の貿易ルールを新たに定めた条約です。具体的には下田と函館の2か所に加えて、横浜、長崎、新潟、兵庫の4か所を新たに開港しました。しかしながら、日米修好通商条約は日本側にとっては不利となる内容も含まれていました。有名なのが「日本側が関税自主権を持たないこと」、「アメリカに領事裁判権を認めること」です。前者は、国家が主権に基づき自国の関税を自主的に制定する権利のことを指しています。この関税自主権がないことで、外国からの輸入品に対して日本が自由に関税をつけることが出来なくなります。それにより安価な外国製品が次々と国内に流入し産業発展を妨げる事態となってしまいました。そして後者は、外国人が日本で罪を犯した場合に日本の裁判で裁くことが出来ないという決まりでした。日米修好通商条約のこのような不平等な内容によって、明治政府は当時長い期間苦しめられていたようです。
実は明治5年(1872年)に条約改定の協議期限を迎えることとなっていました。それを機に条約改定の交渉を目的として使節団が派遣されました。この時に使節団を率いたのが岩倉具視でした。岩倉具視特命全権大使を筆頭として、副使には大久保利通、木戸孝允らが任命され総勢103名で構成されていました。
岩倉具視使節団は明治4年(1871年)に横浜を出港しアメリカのサンフランシスコへと足を運びました。しかし、その最中に条約改正の委任状の不備があることを発見しました。具視らはこの状態での条約改正の交渉は難しいと考え、渡航目的を欧米各国の調査へと変更しました。
最終的に1年10カ月もの期間欧米諸国を視察して回り、各国の首相たちと面会したが条約改正の糸口をつかむことはできませんでした。
その一方で使節団一行は非常に多くのカルチャーショックを受けたといいます。例えばアメリカでの鉄道です。彼らの想像を大きく超えた発展を見て「日本も鉄道の設置が必要だ」と確信しました。さらにイギリスでは、工場で生産されていた道具や武器、チョコレートやビスケットの大量生産など日本よりも先を行った産業発展を目の当たりにし非常に驚いたそうです。
さらに、この視察で欧米の特許制度に関しても目の当たりにし、その後の日本に大きく影響を与えるターニングポイントとなりました。使節団はアメリカワシントンにあった特許局(パテントオフィス)を訪問しました。
世界で初めての特許法はヨーロッパ諸国で広がりその後アメリカに伝わったと言われています。しかし、アメリカは進んでいるヨーロッパ諸国を追い越す覚悟で特許制度に関して尽力してきました。例えばアメリカの特許法によれば、損害賠償額は最大で実損の3倍に設定されていたようです。実損の3倍という制度はベースとなった英国法にもなかったもので、アメリカが独自に設けた規則の一つでした。そのような特許制度の充実により、アメリカでは白色電球や蓄音機(トーマス・エジソン、アメリカの発明家)、電話(アレクサンダー・グラハム・ベル、スコットランド生まれの科学者・発明家・工学者)、動力飛行機(ライト兄弟、アメリカの世界初の飛行機パイロットとなった兄弟)など、現代社会でも欠かすことのできないものの発明が相次ぎました。そして具視らは日本の産業の発展には特許法の確立が不可欠だと確信しました。
使節団一行は欧米諸国を視察しながら特許法に関する各国の資料を大量に集め、明治6年(1873年)日本へと持ち帰ってきました。

岩倉具視の生涯(特許法の制定)
日本において特許法が初めて執行されたのは明治4年(1871年)でした。しかし、この時に定められた専売略規則は上手く機能することが出来ず、特許件数0件のままたった1年で執行停止となっていました。その後、特許法再制定の声が世論としても高まり、具視が持ち帰った各国の資料などから、特許法の再度執行に向けて動くこととなりました。
しかし明治16年(1883年)、具視は咽頭癌を患っていました。治療による回復もしないまま同年の7月20日、59歳でこの世を去りました。7月25日には日本で初となる国葬が執り行われました。
明治18年(1885年)4月18日、後の日本の特許制度の基盤となる「専売特許条例」が定められ、同年の7月から執行されました。この特許制度の確立により、発明品が保護され発明家への利益が保証されるようになり、産業の発展へとつながっていきました。
実際に特許法の執行を具視がその目で見ることはかないませんでした。しかし、今の日本があるのは具視が現地へ出向き必死に行った情報収集によるものに違いありません。

今回は日本の特許制度確立に大きな影響を与えた岩倉具視の生涯を振り返ってきましたが、いかがだったでしょうか。実際には不平等条約の改正の交渉に向かった岩倉具視率いる使節団でした。しかし、彼らの欧米視察があり特許法の基礎がつくられたからこそ、今の豊かな生活が実現できているといっても過言ではありません。私たちが何気なく使用しているものも、このような特許法が制定されていなければ誕生していなかったかもしれません。特許法誕生に向けて尽力した方々のエピソードを知るだけでも物事への見方は大きく変わっていくのではないでしょうか。今後の世の中の発展がとても楽しみですね。

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