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【SKIPの知財教室(IP Hack)】「西洋事情」で特許制度を紹介 福沢諭吉(慶應義塾大学創立者)

2022.02.18

SKIP

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらは全て先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。また、私たちの生活がこれほどまでに豊かになったのは発明品を保護し、産業の発展に寄与させる制度である「特許法」が定められているからです。このような特許制度は先に海外で基礎がつくられ、日本はその制度に習って普及させたという歴史があります。かつて西欧諸国では、素晴らしい発明には特許権が付与され、一定期間保護されるのと併せて大きな利益を得られる仕組みが整っていました。その仕組みのおかげで発明家たちは新技術の開発や改良に尽力できる環境になっていました。科学技術と国の発展には特許制度の普及が必要だと現地に出向いた際に気づいたのが福沢諭吉(ふくざわゆきち)です。その後、「西洋事情」という書籍で特許制度への理解を普及させ、日本の産業の発展に大きく貢献しました。そこで今回は、今や日本で知らない人はいないであろう、日本を代表する啓蒙思想家・教育者の福沢諭吉の生涯を振り返っていきます。

福沢諭吉の生涯(著書「西洋事情」の誕生まで)
福沢諭吉は天保5年12月12日(1835年)に摂津国大阪堂島新地五丁目(現在の大阪府大阪市福島区福島一丁目)の、豊前国中津藩(現在の大分県中津市)の蔵屋敷にて、下級藩士の福沢百助と於順の間に次男として誕生しました。翌年天保6年(1836年)には父の死により、諭吉は大阪から帰藩して中津(現在の大分県中津市)で暮らし始めました。
諭吉が5歳の頃から、藩士の服部五郎兵衛から漢学(江戸時代に中国から来た学問の総称)と一刀流(伊藤一刀斎によって創始された剣術の流儀)について学び始めました。最初のころ読書は好きでなかったようですが、14歳になった頃から「勉強をしないのは世間体が悪い」ということで、真面目に取り組み始めたようです。諭吉は、勉強を始めるとすぐに実力が付き始めました。
18歳のころには諭吉の兄の三之助も通っていた野本真城、白石照山の塾・晩香堂に通い学びを深めました。当時の諭吉は、「論語」「孟子」「詩経」「書経」「史記」「左伝」「老子」「荘子」などを読みこみました。特に「左伝」に至っては15巻を11回も読み直したくらいであり、面白い場面は暗記していたようです。諭吉が学んでいた学問の基本は儒学であり、彼が後に蘭学を学び思想家になる際の原体験となりました。
そして、安政元年(1854年)、諭吉は兄の勧めで19歳で長崎へ遊学して蘭学(オランダ流砲術)を学びます。さらに、安政2年(1855年)、諭吉は中津へ戻るようにとの藩の命令を無視して、勝手に大阪に行き、緒方洪庵が開いた適塾に入塾してさらに蘭学(物理学、化学、電磁気学)を極めます。さらに、安政5年(1858年)、諭吉は藩の命令で江戸に行き、慶應義塾大学の前身となる蘭学の私塾を開きます。しかし、安政6年(1859年)、諭吉は横浜を訪れた際に、外国人にオランダ語が通じず、外国人の多くが英語を喋っていることにショックを受けます。それから、諭吉は独学で猛勉強の末に英語をマスターしました。
そのころ、諭吉は、文久元年(1861年)に諭吉は中津藩士であった土岐太郎八の次女・お錦と結婚しました。その年の12月に、竹内保徳(幕末の幕臣)を正使とする幕府使節団が幕府により結成されました。使節団を欧州各国に派遣することとなり、諭吉は文久2年(1862年)に翻訳方として加わりました。そしてそれを機に諭吉は渡欧しました。
文久2年(1862年)4月2日、幕府使節団はイギリスのロンドンに到着しました。ロンドンでは市内の駅、病院、協会、学校など様々な公共施設の見学を行いました。さらに、万博(1862年第2回ロンドン万国博覧会)にも出向き、蒸気機関車・電気機器・植字機(タイプライター)などを目にしました。ロンドンをあとにし、続いてはオランダのユトレヒトを訪れました。そこで使節団は街の様子を見学しました。実はこの使節団の写真がユトレヒトの貨幣博物館に所蔵されたアルバムから見つかりました。これはおそらく、ドイツ系の写真家によって当時撮影されたものと思われています。その後は、プロセイン(プロセイン王国。現在のドイツ北部からポーランド西部にかけて領土となっていた、首都はベルリン)、そしてロシアを訪問しました。実際のところロシアには樺太国境問題を抗議するために訪問しました。しかし、なぜか幕府使節団は陸軍の病院で実施されていた尿路結石の外科手術を見学することになりました。その後、フランスのパリを訪問、最後にポルトガルリスボンを訪問し使節団の渡欧は幕を閉じました。
このヨーロッパの訪問の際に幕府使節団は英書、物理書、地理書を何冊も買い込み日本へと持ち帰りました。諭吉は、ヨーロッパの病院・銀行・郵便法・徴兵令・選挙制度などヨーロッパで目撃したことを「西洋事情」や「西航記」に事細かにまとめました。この中にヨーロッパの特許制度についても書かれています。
諭吉はヨーロッパ諸国で目にした様々な最新技術に対して非常に驚きました。当時のヨーロッパ諸国では特許制度が整えられていました。発明家が画期的な発明をすると、発明家に特許権が付与され一定期間保護され、非常に大きな利益を得ることが出来るという環境です。そのため多くの人々は特許を得るべく、様々な新たな開発・改良に尽力していました。多くの人々が尽力する環境は、結果的に国の産業や経済発展に繋がっていることに気づきました。諭吉はこのことについて著書「西洋事情」に以下のように記しています。以下引用
『世に新発明のことあらば、これよりて人間の洪益をなすことを挙げて言うべからず。ゆえに有益の物を発見したる者へは、官府より国法をもって若干の時限を定め、その間は発明によりて得るところの利潤を独りその発明者に付与し、もって人心を鼓舞する一助となせり。これを発明の免許(パテント)と名づく』
この文章は、「発明は国民全体に利益をもたらす。発明者への権利を認める法律を定め、一定期間の利潤を得られるような制度を作ることで、発明をしようとする人が増え、日本の発展に繋がります」と述べています。慶応2年(1866年)に初刊が発行された「西洋事情」では、このように誰もが理解できるように書かれていたため、多くの人に共感されました。そして同時に特許制度の確立を願う声も高まってきました。

福沢諭吉の生涯(その後の活躍)
福沢諭吉が西洋事情で多くの方に訴えかけた特許制度の重要性でしたが、諭吉以外にも岩倉具視が各国の特許制度の資料を集めるなどの協力があり、ますます特許制度の重要性が周知されていきました。特許制度は日本の発展のために必要という考えが広まってから月日は経ち、明治18年(1885年)に専売特許条例が施行され、日本における特許制度が開始しました。
諭吉は晩年にも多くの功績を残していました。明治23年(1890年)には彼が創設した慶應義塾に大学部を発足、明治25年(1892年)には北里柴三郎が初代所長を務めた「伝染病研究所」を設立、明治26年(1893年)には「土筆ヶ岡養成園」(東京大学医科学研究所付属病院)を開設、明治31年(1898年)には慶應義塾の学生を改革し、一貫教育制度を樹立しました。また政治科を増設するなど教育に尽力しましたが、同年の9月に脳出血で倒れました。このとき、幸いなことに大事には至らず回復しました。
翌年の明治32年(1899年)の8月にふたたび倒れ意識不明の状態となりますが、およそ1時間後に回復しました。同年には「修身要領」(慶応義塾が編纂した教訓集、実際に編纂したのは弟子や子息たちである)を完成させ、明治33年(1900年)の三田演説会で「修身要領」が発表されました。
明治34年(1901年)1月25日、諭吉は再び脳出血で倒れました。2月3日、再出血し午後10時50分にこの世を去りました。
ここには書ききれないほどの偉業を成し遂げた福沢諭吉は、これまでの功績が認められ、昭和59年(1984年)に一万円札の肖像画として起用され、現在も使用されています。平成12年(2000年)に朝日新聞により行われた「この1000年・日本の政治リーダー読者人気投票」では好きな政治家ランキングの第7位にランクインするなど、多くの日本国民に親しまれている人物です。

今回は福沢諭吉の人生を振り返ってきましたが、いかがだったでしょうか。諭吉は非常に多くの功績を成し遂げた人物です。あまり知られてはいないかもしれませんが、特許制度の確立にも注力した人物でした。かつて西洋の産業レベルと差があった日本ですが、その原因は特許制度にあると確信した諭吉の行動により、日本は大きく発展したといっても過言ではありません。これまで特に気にしてこなかったかもしれませんが特許制度の確立に隠されたエピソードを知るだけでも、様々な物事への見方は変わってくるのではないでしょうか。これから更なる日本の発展に期待したいですね。

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