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【SKIPの知財教室(IP Hack)】日本の十大発明家 杉本京太(和文タイプライターの発明家)

2022.01.07

SKIP

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらは全て先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。そこで、日本政府は、歴史的な発明家として永久に功績を称えるにふさわしい10名を学識経験者の方々に選出していただき、選ばれた10名を十大発明家としました。今回はその一人、「杉本京太(すぎもときょうた)」についてご紹介します。突然ですが、皆さんは手書きの文字を読む機会はどのくらいあるでしょうか。スマホやパソコンが普及し、私たちが手書きの文字を読む機会は減ってきています。これらのデバイスが普及する前の1900年代前半には、タイプライターと呼ばれる活字を紙に打ち付けて文字を印刷する機械が使われていました。タイプライターの普及により手書きが不要になったことから文章作成が楽になり、多くの企業や事務所などで幅広く使用されました。この時日本語の壁にぶち当たり苦労しながら、タイプライターの開発にあたったのが杉本京太です。そこで今回は文章作成に変革をもたらした日本の発明家である杉本京太の生涯を振り返っていきましょう。

杉本京太の生涯(誕生からタイプライターの発明まで)
杉本京太は和文のタイプライターを発明した日本を代表する発明家です。彼が和文タイプライターの発明に尽力していた当時、英語のタイプライターは存在していました。なぜ英語タイプライターは存在して、日本語タイプライターは存在していなかったのでしょうか。理由は両言語に使用されている文字の数です。英語は26種類のアルファベットから成っています。大文字と小文字を考慮しても52種類です。一方で、日本語はひらがなとカタカナは46種類ずつ、常用漢字としては2,136文字、常用漢字以外もすべて合わせると考慮すると10万を超えると言われています(正確には把握できないほど多い)。つまり日本語で使用される文字の種類はアルファベットとは比にならないくらいの数です。そのため、従来のライプライターと同じものを日本語版として使用することは事実上不可能でした。今回はそんな日本語の壁にぶち当たりながら和文タイプライターを発明した杉本京太の生涯を振り返ります。
杉本京太は明治15年(1882年)に岡山県上道郡浮田村(現在の岡山市東区)に、長男として誕生しました。彼は当初、通信技術者になることを夢見ていました。そして明治32年(1899年)、京太が17歳のころ、大阪に渡りました。大阪市電信技術養成所に入所し学びを深めました。明治33年(1900年)には京太は大阪電信技術養成所を卒業しました。
卒業後、京太は大阪郵便局にて勤務を始めました。その後さらに活版印策技術関係の仕事に移り従事していました。明治45年(大正元年、1912年)、京太が30歳のときには大阪活版印刷研究所にて技術主任となっていました。そして、設計製図や木型組み、活版事業などに関する指導に尽力していました。その後、京太が勤務していた大阪活版印刷研究所は、活版術改良協会と改名し、東京に移転しました。その移転と同時に京太も上京しました。
実はこの頃欧米では既にタイプライターは存在していました。そのためタイプライターが存在していた欧米諸国では、ペンを用いた手書きはあまり用いられなくなっていました。しかし、先述のように日本語は英語に比べ使用されている文字の種類が多かったため、タイプライターが発明されることは簡単ではありませんでした。
大正3年(1914年)に京太は独立しました。そして、この頃から日本語に特化したタイプライターの開発に専念し始めました。
そして1年後の大正4年(1915年)に日本語に特化した和文タイプライターの開発に成功しました。京太は和文タイプライターで初めて特許を取得(特許第27877号タイプライター)しました。当時のタイプライターは1台が定価180円で販売されました。当時の物価は現在の1,080倍と言われています。つまり、タイプライターの定価1台180円は、現在の価格に直すと194,400円にもなります。非常に待ち望まれたものだっただけに、とても高価なものであったことが分かりますね。

杉本京太の生涯(タイプライターの発明以降の活躍)
京太は和文タイプライターの発明後の大正6年(1917年)に大谷仁兵衛(明治から昭和にかけての日本出版業界を代表する実業家)と、杉本甚之助と一緒に日本タイプライター株式会社を創立しました。この会社は後に「キャノンセミコンダクターエクィップメント株式会社」となりました。
さらに、和文タイプライターと同様に、「華文(中国語文)タイプライター」も開発・製造を行い、上海にて販売を始めました。大正9年(1920年)には日本語のモノタイプ(活字鋳造機、活字を鋳造する機械のこと)を発明し、製造も開始しました。活字の鋳造機に関しても欧米に比べ日本は遅れており、1883年にブルースが手動鋳造機を既に発明し、1885年にはH.バースが自動鋳造機の特許をアメリカで取得していました。京太は欧米に遅れること約35年、日本語の活字鋳造機を開発しました。
その後は昭和11年(1936年)に小型トーキー映写機の発明、その後は和文タイピストの育成などにも力を注ぎました。
昭和47年(1972年)、杉本京太は91歳のときにこの世を去りました。
彼の功績は日本中並びに多くの国から認められ、昭和60年(1985年)には特許制度制定百周年記念の「日本の十大発明家」に選出されました。さらに、昭和28年(1953年)には藍綬褒章、昭和40年(1965年)には勲四等旭日小綬章を受賞しました。現在の日常生活でタイプライターを使用することはないと言っても過言ではないため、想像がつきにくいかもしれません。しかし、彼の発明が非常に画期的なものであることは事実であり、日本中の企業の作業効率化により、日本経済の発展に著しく貢献しました。

杉本京太の代表発明品
杉本京太は難しいと言われていた日本語のタイプライターを発明した日本を代表する発明家です。ここでは彼の代表発明品の和文タイプライターについて詳しくご紹介していきます。
企業などで使用される資料に書かれている文字は、かつて手書きでした。そのため現在に比べて作業効率の悪さが問題となっていました。いち早くタイプライターが発明されたのは欧米諸国であり、タイプライターの普及後は手書き文字が一般的に使用されることはなくなりました。欧米諸国で使用されていたようなタイプライターを望む声は非常に多くありました。しかし、日本語には漢字のように複雑でアルファベットとは比にならないくらいの文字の種類があるため、タイプライターの開発は遅れていました。
京太は種類の多い日本語にも対応できるように、公式文書に使用された文字の使用頻度を調査し、2,400文字を選出しました。それらの文字を活字庫に分類整理されていた特有の配列で並べました。そして前後左右に稼働する一本のタイプバーで活字をつまみ、円筒形の紙保持具に打点するという手法で動く和文タイプライターを完成させました。
手書きに比べ飛躍的に効率が上がり、多くの企業や官公庁の書類作成において使用されました。1980年代になると日本語のワードプロセッサーが普及し始め、企業からタイプライターは姿を消しました。

今回は日本語のタイプライターを発明した発明家、杉本京太の生涯についてご紹介しましたが、いかがだったでしょうか。「タイプライター」という言葉自体聞いたことがないという方もいたかもしれません。時代の発展に伴って姿を消したものですが、日本社会に多大なる貢献をした事実は消えません。彼の和文タイプライターの発明のおかげで、作業効率が大幅に上がり、日本経済は成長しました。今私たちが日常的に使用しているものでも、数年後・数十年後には姿を消すものもあるでしょう。逆にそれらに置き換わる新たな大発明はどのようなものか楽しみですね。

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