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【SKIPの知財教室(IP Hack)】日本の十大発明家 高峰譲吉(タカジアスターゼとアドレナリンの発明家+第一三共グループの創業者)

2021.12.10

SKIP

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらは全て先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。そこで、日本政府は、歴史的な発明家として永久に功績を称えるにふさわしい10名を学識経験者の方々に選出していただき、選ばれた10名を十大発明家としました。今回はその一人、「高峰譲吉(たかみねじょうきち)」についてご紹介します。突然ですが、皆さんは胃の調子が悪いときにはどうしていますか。胃の機能を促進する健胃薬を服用するでしょう。また、心臓病や高血圧症が原因で起こる心不全のような重病でも、強心剤という医薬品により回復が期待できます。健胃薬の中にはタカジアスターゼ、強心剤の中にはアドレナリンが含まれています。私たちが普段安心して生活できるのはこのような医薬品が充実しているからであり、その裏には高峰譲吉の歴史的な発見が大きく影響しています。今回はそんな高峰譲吉の生涯を振り返っていきましょう。

高峰譲吉の生涯(誕生からタカジアスターゼ発見まで)
高峰譲吉は、今や医薬品の原料としては欠かせなくなったタカジアスターゼの発見、アドレナリンの単離に成功した日本を代表する発明家です。
今回はそんな高峰譲吉の人生を誕生から振り返っていきましょう。
高峰譲吉は嘉永7年(1854年)に越中国高岡(現在の富山県高岡市)の山町筋という御馬出町に誕生しました。彼の実家は漢方医をやっており、父は漢方医の高峰精一でした。翌年には彼の父精一が学問所「壮猶館」に務めることになったため、加賀国金沢城下の梅本町(現在の石川県金沢市大手町)に移住しました。幼いころに譲吉は外国語と科学に対しての興味と才能を発揮しており、父の精一からは西洋科学を深めることを勧められるほどでした。
慶応元年(1865年)、譲吉が12歳になったときには加賀藩から選抜されて長崎への留学を経験し、海外のテクノロジーに触れました。そして、明治元年(1868年)に京都の兵学塾、大阪の緒方塾に入学し、翌年の明治2年(1869年)彼が16歳のときには大阪医学校、大阪舎密(せいみ)学校に行き医学を学び始めました。その後彼は工部大学校(後の東京大学工学部)に進学し、応用化学科をなんと首席で卒業しました。そして、英国に留学してグラスゴーにあるアンダーソン大学のミルズ博士のもとで化学を学びました。
明治16年(1883年)、英国留学から帰国した譲吉は、農商務省の役人となりました、そして、明治17年(1884年)末に、アメリカのニューオーリンズで開催された万国産業博覧会に派遣され、約1年間ニューオリンズに滞在し、下宿先の娘のキャロラインと婚約します。そして、万博から帰国した譲吉は、明治19年(1886年)年に、高橋是清局長(初代特許庁長官)が設立した農商務省特許局の次長となり、特許・商標制度の確立に尽力しました。
明治19年(1886年)に譲吉は、のちの日産化学となる東京人造肥料会社を設立しました。数年後に会社の経営が軌道に乗ってきたころ、アメリカの酒造会社から声がかかり明治23年(1890年)にアメリカに渡りました。実は譲吉は、母の幸子が造り酒屋の娘であったこともあり、清酒醸造にも興味がありました。そして彼は、アメリカにて「高峰式元麹改良法」(ウイスキーの醸造に日本の麹を使用したもので、従来の麦芽で作ったモルトに比べ強力なでんぷんの分解力を保有していたもの)に関しての特許を出願しました。
渡米後には木造の研究所で研究を続けて、麹を利用した醸造法が採用されました。しかし、その麹による醸造法が採用されたことにより、モルト職人たちは儲からなくなってしまい多くの怒りを買ってしまいました。その後、譲吉はモルト職人たちを従来よりも優遇した環境で雇い無事に和解しました。
一方で、モルト向上に多額の費用をつぎ込んでいた醸造所の所有者たちの怒りを抑えることはできませんでした。そして、激高した所有者たちは譲吉開発の麹の醸造法を止めさせようと企み、深夜に譲吉夫妻の家に侵入し暗殺を試みました。譲吉はその時隠れていたため見つからず、何とか殺されずに済みました。しかし残念なことに、暗殺を計画していた所有者たちは研究所に忍び込んで、研究所を全焼させました。
その後の明治27年(1894年)に、譲吉は大きな発見をしました。それが、でんぷんを分解する酵素(消化酵素)、すなわちアミラーゼの一種である「ジアスターゼ」を植物から取り出した「タカジアスターゼ」の発見です。ジアスターゼの抽出方法を発見したことはのちの医学分野の発展に非常に大きく貢献しました。その後、譲吉は多数の特許権を取得しました。

高峰譲吉の生涯(消化酵素ジアスターゼの抽出方法発見以降の活躍)
高峰譲吉はタカジアスターゼの発見後、シカゴに移住しました。シカゴは当時、有数の肉製品の産地であり、非常に多くの食肉処理場が存在していました。譲吉は、この時に廃棄されていく家畜の内臓からアドレナリンを抽出する研究を開始しました。
明治34年(1901年)にはアドレナリンの結晶抽出に成功しました。これはホルモンの抽出に成功した世界初の例となりました。現在アドレナリンは、急激な血圧低下などで意識レベルが低下するアナフィラキシーショックや、昇圧剤、止血剤などに使用されています。譲吉のアドレナリンの抽出成功がその後の医学の発展に大きく貢献したことはもはや言うまでもありません。
譲吉のこれまでの功績が称えられ、明治45年(1912年)には帝国学士院賞を受賞しました。そして大正2年(1913年)6月26日には帝国学士院会員となりました。さらにその年三共(後の第一三共株式会社)の初代社長に就任しました。第一三共は今でも日本での「タカジアスターゼ」の独占販売権を持っています。
さらに譲吉はアメリカの会社が持っているアルミニウムの製造技術とその原料を参考にして、富山県の黒部川の電源開発による電気を利用した国内初のアルミニウム製造事業の推進に尽力しました。そして大正8年(1919年)には譲吉らは東洋アルミナムを設立しました。その後は、アルミ精錬には電源の確保が必要なため、黒部川に発電所を作ることとなりました。そしてその資材を輸送する手段として黒部鉄道の運行を計画し、黒部鉄道を設立にも貢献し、大正10年(1921年)に鉄道免許状が付与されました。さらに、宇奈月温泉の起源となる黒部温泉株式会社、黒部水力株式会社の設立も果たしました。晩年には地元富山の開発に従事しました。
大正11年(1922年)の7月22日に、腎臓炎のためニューヨークにある自宅で息を引き取りました。譲吉が晩年に尽力していたものの一つだった黒部鉄道はその年の11月5日に開業だったため、彼が実際に目にすることはないままでした。

高峰譲吉の代表発明品
彼の代表発明品は、消化酵素の一種「タカジアスターゼ」とホルモンの一種「アドレナリン」です。ここではこれらの発明についてご紹介します。
まず「タカジアスターゼ」です。こちらは高峰譲吉が明治27年(1894年)に発見しました。「タカジアスターゼ」という名前は酵素の意味である “Diastase” を比較的呼びやすいドイツ語読みし、前にはギリシャ語で「最高」「優秀」を意味するとともに高峰の名にちなんだ “TAKA” がつけられたものです。現在でも健胃薬などの医療用の医薬品や大衆薬の成分として広く利用されています。
続いて「アドレナリン」です。高峰譲吉が明治34年(1901年)に副腎から分泌されるホルモンとして結晶化して単離に成功したのが「アドレナリン」です。このアドレナリンは先述の通り止血剤や強心剤として広く医療で活用されています。

今回は「タカジアスターゼ」と「アドレナリン」の単離に成功した日本を代表する発明家である高峰譲吉の人生についてご紹介してきましたが、いかがだったでしょうか。私たちが病気になっても健康を取り戻せるのは、医療が非常に発展したからです。そして医療の発展に大きく貢献したのが、高峰譲吉の発見でした。命の危険に晒されながらも研究をつづけ、素晴らしい功績を残した彼には頭が上がりません。しかし現在も治療が困難で苦しむ方も多い癌など、発展途上の治療法は沢山あります。今後の素晴らしい発見や発明によりさらに医学が進歩することを期待したいですね。

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