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【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】ラジオ放送の発明家 フランク・コンラッド(アマチュア無線で音楽を流して有名になった発明家)

2022.11.18

SKIP

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらは全て先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。家事をしている最中や一休みをするとき、寝る前のくつろぎの時間にラジオを聞くのが日課だという方も少なくないのではないでしょうか。聞くだけのため何か作業をしながらでもニュースや何気ない会話を楽しめるのがラジオの良いところです。現在はテクノロジーの発展によりスマートフォンのラジオアプリを利用して世界中のラジオが簡単に聴講できるようになってきました。20世紀の初期に世界で初めて商業ラジオ放送局KDKAを設立してラジオ放送を行ったのは、アメリカ人無線技術者のフランク・コンラッド(Frank Conrad)がさまざまな実験をして新たな分野を切り開いてくれたからです。その後、ラジオは重要なインフラとしてまたは娯楽として世界中に普及していき、私たちの生活を豊かにしてくれるものとなりました。そこで今回はラジオ放送の生みの親であるフランク・コンラッドの生涯を振り返っていきましょう。

 

フランク・コンラッドの生涯(無線通信実験の開始まで)

1874年(明治7年)5月4日、フランク・コンラッドはアメリカ合衆国ペンシルベニア州の南西部の都市ピッツバーグで生まれました。コンラッドの父は鉄道整備士として働き、家族を養っていました。

学生時代は技術に関する教育を受けるという経験は特にないまま過ごしていました。コンラッドが16歳になった1890年(明治23年)、ピッツバーグのウェスティングハウス電気製造会社へ就職することとなりました。この会社の創業者ジョージ・ウェスティングハウスは、鉄道用空気ブレーキを発明したことで有名でした。また、ニコラ・テスラ(直流電気方式や無線操縦などを発明したセルビア国籍の発明家)と共に交流システムを主張し、直流システム主張派のトーマス・エジソン(蓄音器や白熱電球を発明し発明王とまで呼ばれたアメリカ人発明家)との電流戦争に勝ったことでも知られています。

就職後のコンラッドは非常に優秀で努力家だったそうです。彼が23歳になったときには検査部門配属となり、アーク灯、交流電流計、交流電力計の改良に尽力しました。この時には既に頭角を現しており、複数の特許を取得するほどの活躍ぶりだったそうです。

電気系統に関する研究をしてきたコンラッドでしたが、あるとき会社が無線分野への進出を目標に掲げはじめ、コンラッドも無線実験メンバーの一人となりました。1916年(大正5年)、商務省電波局から実験局8XKの許可をもらいました。電波実験の際にアマチュア局では1,500 kHzより低い周波数を使用することができなかったため、波長制限のない実験局が選ばれたそうです。その後、コンラッドは自宅のガレージに設置した20 Wの送信機と8キロメートル先の会社の工場の受信機との間で無線実験を続けました。

翌年の1917年(大正6年)にアメリカが第一次世界大戦(1914-1918)に参戦したことから、コンラッドの会社はアメリカ軍へ真空管の供給を開始しました。さらに、アメリカ陸軍の通信隊から移動用送信機75台と移動用受信機150台の設計から製造までを受注しました。後にこれらの受注品は、元陸軍の技術者ドナルド・G・リトルと共に完成させました。

しばらくして終戦が近くなると、軍用無線機の需要が激減すると考え会社では業務用無線電話システムへの民需転換を検討し始めました。港湾運送への無線機進出を考え、ニューヨーク港で無線電話実験を行ったが、通信可能範囲がたったの1マイル(1.6キロメートル)であったため、実験は失敗に終わりました。また、ニューヨークのブルックリンにある国際無線電信会社のターミナルとボストン行き蒸気船の2か所に、さらに大きなアンテナを設置して実験が行われました。船舶局へのニュース放送を行うことを目的とし、通信可能範囲を100マイルまで拡大することに成功しました。しかし、船舶会社から賛同を得ることができず計画は白紙になり、無線機開発チームは解散しました。

 

フランク・コンラッドの生涯(無線通信の商業化とラジオ放送の開始)

第一次世界大戦が終戦し、米国での民間無線の戦時制限も同時に廃止となったため、コンラッドは1920年(大正9年)、無線実験のために再度8XKの許可を取得しました。コンラッドは500キロメートル先のボストンにいたJames C. Ramseyに無線受信依頼をして、定時送信を開始することとなりました。この実験はアマチュア無線家界隈で噂となり、アマチュア団体ARRLの機関紙で紹介されるまでになりました。

徐々にアマチュア無線家たちとの交流も盛んになり、受信報告や放送希望の演奏曲がリクエストされるようになり放送するようになりました。放送するレコードが足りないときには地元のハミルトン音楽店に「レコードはハミルトン音楽店で販売しています」と紹介することを条件に無償提供を受けられるようになりました。実際にコンラッドがアナウンスしたレコードは、アナウンス後に販売枚数が向上したそうです。

ウェスティングハウス電気製造会社の副社長だったデイビスは、ジョセフ・ホーン百貨店の広告に衝撃を受けました。そこには、『木曜夜10時頃から20分ほど、ウィルキンズバーグのフランク・コンラッドさんが無線で音楽コンサートを定期放送しています。当店ではこれを聴ける完成品受信機を10ドルからの価格で展示販売中です。 (西・地下売り場)』(原文は英語)と書かれていました。そのとき、デイビス副社長は受信機販売ビジネスに直結すると確信したそうです。そしてデイビス副社長はコンラッドら無線機チームを再招集しました。11月2日に迫っていた合衆国大統領選挙の開票速報の放送を目標として、工場の屋上に小屋スタジオと送信アンテナの建設が開始されました。

そして1920年11月2日の大統領選挙開票の当日、世界で初めての商業ラジオ局KDKAが放送を開始しました。当時はピッツバーグ・ポスト社からの開票数字を、広報部が読みあげながら速報と速報の間を音楽でつないでいたそうです。受信機は教会や会社幹部宅に設置され、周辺には聞きつけた住民が大勢集まって放送は深夜まで続き、大成功を収めました。

この放送を機にKDKAではリスナーを増やすために講演、劇場、スポーツなどさまざまな中継を行うようになりました。特に人気だった放送が、1921年(大正10年)1月2日に開始された日曜礼拝中継でした。この放送ではピッツバーグ市内の教会からKDKAを経由して日曜礼拝を生中継していました。これは礼拝に訪れるのが難しい人たちから非常に高評価を得ることとなりました。

その後、ラジオが普及するにつれ、無線電波同士の混信が社会問題となりましたが、アマチュア無線への帯域免許や通信禁止規則を設けるなどして解消していきました。その後も様々な実験を繰り返していき、ラジオ放送が安定化し世界中へと普及していきました。

ラジオが普及していなかった日本では、1923年(大正12年)に関東大震災が発生し無線通信の重要性が国内で広く認知され、急ピッチで日本国内への導入が進められました。2年後の1925年(大正14年)に東京放送局(現在のNHKラジオ第一)がKDKAの技術を用いて日本で初めてのラジオ放送を開始しました。

1941年(昭和16年)12月10日、67歳のときフランク・コンラッドはフロリダ州で息を引き取りました。

 

今回は世界で初めてラジオ放送を開始したアメリカ人無線技術者のフランク・コンラッドの生涯を振り返ってきましたが、いかがだったでしょうか。戦争で利用されていた無線通信技術を、終戦を機に商業化できないか実験を繰り返し、大統領選挙の開票速報をラジオ放送して大成功を収めました。その後さまざまな分野でラジオ放送を実施し、徐々に民衆へと普及していきました。今や日本を含め世界中で重要なインフラや娯楽のひとつとなるまでに成長している媒体です。今回ラジオ放送誕生の秘話を知ることができ、これまで何気なく耳にしていたものが違って聞こえてくるかもしれませんね。これから先、どのような発明が誕生して、どのような世界になるのがとても楽しみですね!

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