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【SKIPの知財教室(IP Hack)】日本の十大発明家 丹羽保次郎(FAXの発明家+東京電機大学初代学長)

2022.01.28

SKIP

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらは全て先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。そこで、日本政府は、歴史的な発明家として永久に功績を称えるにふさわしい10名を学識経験者の方々に選出していただき、選ばれた10名を十大発明家としました。今回はその一人、「丹羽保次郎(にわやすじろう)」についてご紹介します。近年ではデジタル化の発展に伴い、文書や写真の転送においては電子メールが主流になってきていますが、以前はFAXが利用されていました。専用の回線を利用したFAXは遠隔地に一瞬で文書や写真を送信できる利便性から、多くの企業で利用されていました。そんなFAXの基礎となる独自方式の写真電送装置を発明したのが丹羽保次郎です。保次郎が発明した写真電送装置は大成功をおさめ、日本で実用化されました。そしてその後のFAXの発展に繋がるなど、彼は大きく日本社会に貢献しました。今回はそんな写真電送装置を発明した日本の発明家丹羽保次郎の生涯を振り返っていきましょう。

丹羽保次郎の生涯(誕生から写真電送方式の発明まで)
丹羽保次郎はFAXの基盤となるシステムの写真電送装置を発明し、FAXの生みの親として有名となった日本を代表する発明家です。保次郎の発明により文字や図形、写真までも遠隔地へと送信できるようになったことから、その利便性から日本各地で普及し多くの企業で利用されました。また、彼が発明した写真電送装置は国立科学博物館に展示されており、歴史を動かした発明として認められています。今回はFAXの基盤となった写真電送装置を発明した、丹羽保次郎の生涯を振り返っていきましょう。
丹羽保次郎は明治26年(1893年)に三重県で生まれました。
その後は東京帝国大学工科大学に進学し工学を学び、大正5年(1916年)に同大学を卒業しました。その後、逓信省(かつて日本に存在していた郵便や通信を管轄する中央官庁。現在の総務省、国土交通省航空局、日本郵政(JP)、日本通信電話(NTT)が一時期逓信省の後身に相当した)電気試験所に入りました。逓信省電気試験所を出た後、保次郎は大正13年(1924年)の6月に日本電気株式会社(NEC)に入社しました。
当時の日本で普及していた電気技術の大半は欧米由来の技術であり、日本の電気技術分野の遅れが目立っていた時期でした。そのような背景もあり、保次郎は日本独自の電気技術関連の研究開発の重要性を感じていました。NECの入社と同じ年の1924年(大正13年)から1925年(大正14年)の末にかけて、最先端の通信技術を学ぶために欧米に視察に行きました。
大正15年(1926年)の2月には学位論文の「矩形枠捲線輪特ニ其誘導系数ノ計算方法ニ関スル研究」を発表し、この研究にて帝国大から工学博士を授与されました。帰国後保次郎は写真電送の研究に尽力しました。また、NECの研究開発体制の強化を担当し、その取り組みと研究成績が認められ、昭和2年(1927年)に技術部長への昇進を果たしました。写真電送の研究を継続した結果、小林政正次(工学博士、元NEC専務取締役、元慶應義塾大学工学部教授)と共同でNE式写真電送装置を発明しました。この発明は有線回線を利用した写真電送装置であり、後の昭和4年(1929年)に特許権を取得しました(特許第84722号)。
保次郎らが発明した写真電送装置は発明後すぐに大阪毎日新聞社にて採用され、昭和3年(1928年)の昭和天皇(日本の第124代天皇)の即位大礼の写真電送に利用されました。京都から東京に写真を有線電送することができ、人々を驚かせました。

丹羽保次郎の生涯(写真電送方式の発明以降の活躍)
丹羽保次郎らが発明した写真電送装置は、これまでにない独創性と実用性が高く評価されました。日本国内の電気通信業界に非常に大きな衝撃を与え、発展に大きく寄与しました。
しかし、保次郎は有線による写真電送装置を発明した直後から、無線による写真電送装置の研究にとりかかり始めました。そして翌年昭和4年(1929年)には、東京―伊東間の長距離無線写真電送の実験が行われ無事に成功しました。この実験の成功により写真電送装置がさらに日本国内で普及することとなりました。1936年(昭和11年)に開催された夏季五輪ベルリン大会には逓信省が、この写真電送装置を現地に送り込みました。そしてその装置を利用してベルリン-東京間の約8000kmにも及ぶ長距離無線写真電送を成功させました。
昭和14年(1939年)には新設された研究所の初代所長への就任を果たしました。そこで保次郎は電波探知機分野の研究指導に尽力しました。しかし残念ながら第二次世界大戦後の世の中の混乱とともに経営難に陥ってしまい、昭和24年(1949年)に閉鎖されました。
同年の昭和24年には東京電機大学の初代学長にも就任しました。後に保次郎は同大学の名誉総長となりました。さらに、昭和30年(1955年)には社団法人テレビジョン学会初代会長に就任しました。また、昭和32年(1957年)にはIRE(米国無線学会、IEEE(米国電気電子学会)の前身のひとつ)の副会長、IEEE東京支部の支部長となりました。
保次郎のこれまでの功績が大きく評価され、昭和34年(1959年)には文化勲章を、昭和46年(1971年)の秋の叙勲では勲一等瑞宝章を受章しました。
丹羽保次郎は昭和50年(1970年)に息を引き取りました。

丹羽保次郎の代表発明品
丹羽保次郎はFAXの基礎となるシステムの写真電送装置を発明した、日本を代表する発明家です。ここでは保次郎の代表発明品である写真電送装置についてご紹介していきます。この写真電送装置には誕生間もない時に、欧米製品を差し置いて注目を浴びるきっかけとなった一大イベントがありました。
昭和3年(1928年)に昭和天皇の即位大礼が京都にて執り行われることになっていました。この式典は国民の注目が集まっていましたが、国内の新聞各社は写真の電送に関して悩んでいました。即位大礼は京都で行われますが、その写真をいかに早く東京に伝えられるかです。当時はまだ安定したFAXのような写真電送装置が普及していなかったためです。そのため朝日新聞社ではヨーロッパで実用化されていたドイツ製のコルン式写真電送装置を、大阪毎日新聞社ではフランス製のベラン式写真電送装置の採用を決めていました。しかし、大阪毎日新聞社の試験運用では写真が正常に電送できない問題が発生していました。そのため、丁度保次郎によって開発されたばかりのNE式写真電送装置を採用することになりました。技術が進んでいた欧米製の製品から撤退し、国内製に変更したことは大きな賭けだったはずです。しかし、心配されながらも当日は無事に電送を成功させました。この出来事がきっかけとなり、世界中に認められ、現在のFAXに進化しました。今回はFAXの基礎となるシステムの写真電送装置の開発に成功した日本の発明家、丹羽保次郎の生涯を振り返ってきましたが、いかがだったでしょうか。電気技術分野で欧米に比べて遅れをとっていた当時の日本において、NE式写真電送装置はとても画期的な発明品でした。昭和天皇の即位大礼という一大イベントにおいて、「賭け」とされながらも使用され成功したことで、日本並びに世界から評価を獲得しました。その後は文書や画像を速く簡単に遠隔地に電送できるFAXへと進化し、様々な場所で利用されました。現在では世の中のデジタル化により、FAXを使用する機会が減ってきたかもしれません。しかしこれはテクノロジーの発展により、次の発明品が現れたためであり、その発明に貢献したことは紛れもない事実です。FAXから置き換わった電子メールやチャット機能アプリなども近い将来、新たな発明によって置き換わるかもしれません。今後の世の中の発展が楽しみですね。

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