【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくり®ヒストリー 味噌ラーメンの発明家 大宮守人(味噌ラーメンを発案し、商品化を成功させた、味の三平の初代店主)
2025.11.17

AKI
私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。日本の代表的なグルメであるラーメンには、数々の種類があります。醤油や味噌、豚骨など地域によってスープの出汁や麺の特徴が異なり、食通の人々を楽しませています。北海道・札幌の味噌ラーメンも、ご当地ラーメンの1つです。その発祥となったのは、すすきのに店を構える大衆食堂「味の三平」です。雑誌『暮らしの手帖』に取り上げられたことによって店と名前と味噌ラーメンの存在が全国に知られることとなり、「北海道味噌ラーメン」はご当地グルメとして認知されるようになったのです。味噌ラーメンを発案し、商品化を成功させたのが、味の三平の初代店主の大宮守人です。今回はそんな大宮守人の生涯を振り返っていきましょう。
大宮守人の前半生(札幌でうどんの屋台を始めるが失敗して、ラーメン屋で修業して「味の三平」を独立開業する)
大宮守人は1919年、北海道旭川市で生まれました。日本が軍国主義を掲げた大正時代、大宮も他の人々と同様に国のために働くことを強いられていました。青年期、日本軍の満州への進出に伴い、大宮は戦前から戦中の間を南満州鉄道の機関士を務めました。やがて日本は連合国軍に対して降伏を表明し、歴史上もっとも大規模に広がった第二次世界大戦が終結。大宮は日本に帰国し、故郷の北海道で暮らし始めました。
1948年、日本に帰った大宮は、札幌でつぶ貝とうどんの屋台を開きました。うどん屋台の隣には松田勘七という人物がラーメンの屋台を出しており、2人は親交を深めるようになります。大宮はそれまでに商売の経験はなく、経営はうまくはいきませんでした。対照的に松田の屋台は大人気であり、隣の屋台に流れていく客を眺める日が続きました。
大宮はラーメンを始めるつもりはありませんでしたが、このまま続けても家族を養うことができないと考え、「自分のところでラーメンづくりの修行をしないか」という松田からの誘いを受けます。大宮は松田のもとでラーメンの作り方を学びました。2年間の修業を経て、大宮と松田はともにすすきのへ移り、大宮は『味の三平』を、松田は『龍鳳』をそれぞれ開店しました。この一帯には他にも6軒のラーメン屋が立ち並び、人々はここを「ラーメン横丁」と呼ぶようになります。
大宮守人の後半生(味噌汁をヒントに味噌ラーメンを発明して、大ヒットメニューとなり、「札幌の味噌ラーメン」が全国的に有名になる)
1955年のある日、大宮は雑誌『リーダーズ・ダイジェスト』を目にし、味噌を使ってラーメンを作ることを思いつきました。味噌汁をヒントに研究と改良を重ね、「味噌味メン」というメニューを完成させたのです。味噌味メンはかなりの人気メニューとなり、いつしか「味噌ラーメン」と呼ばれるようになりました。
同年、雑誌『暮らしの手帖』で『味の三平』が紹介され、店の名前は全国に知られることとなります。このときはまだ味噌ラーメンは開発中であり、正式なメニューではありませんでした。地元で付き合いのある人や常連客のみが味噌味メンの存在を知っており、それでも根強い人気があったために大宮は味噌ラーメンの商品化を急ぎました。1963年、大宮の旧友であり、『熊さんラーメン』の店主でもあった大熊勝信は味噌ラーメンを正式なメニューとすることを大宮に薦めました。大宮は試作を終え、ようやく彼の作った味噌ラーメンは日の目を見ることができたのです。
ラーメンのスープに味噌を使うのは、当時としては画期的なアイデアでした。多くの人々の興味を惹き、全国的に「札幌の味噌ラーメン」が知られるようになっていきます。北海道の内外から札幌味噌ラーメンを食べに来る人は絶えず、味噌ラーメンは札幌名物として愛されています。2000年、大宮は肺炎でその生涯を終えました。彼の死後、息子の大宮秀雄が店を継ぎ、現在も経営を続けています。
今回は、札幌味噌ラーメンを発明した大宮守人の生涯を振り返りました。戦後の復興期に店を開き、大人気店にまで成長させた彼の手腕は見事なものでした。隣で屋台を開いていた松田との関係や、雑誌に取り上げられるなどの出来事があったことで名前が広がったのは、運も関係していることでしょう。しかし味噌ラーメンのおいしさが多くの人々に受け入れられているのは事実です。味噌ラーメンの誕生にこのような歴史があったなんて、なんだか感動的ですね。


