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【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくり®ヒストリー 工作機械の発明家 池貝喜四郎・池貝庄太郎兄弟(国産初の旋盤の発明やディーゼルエンジンの量産、最初期のNC加工工作機械などを実用化した、池貝の創業者兄弟)

じっくりヒストリー IP HACK

2025.10.03

AKI

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。高度経済成長期は、日本のあらゆる産業が爆発的に発展し、さまざまなものづくりに革新が起きた時代です。多くの会社が立ち上げられ、製造のための工場も次々に作られていきました。やがてバブルになり、日本経済は最高の時代を迎えます。株式会社池貝は、そんな日本の製造業を支えた老舗企業の一つです。国産初の旋盤の発明やディーゼルエンジンの量産、最初期のNC加工工作機械製造など、数々の事業を手掛けました。池貝を創立したのは、機械技術者として活躍した池貝喜四郎・池貝庄太郎兄弟です。彼らは2人で会社を立ち上げ、現在にも残る大手企業にまで成長させました。今回はそんな池貝喜四郎と池貝庄太郎の生涯を振り返っていきましょう。

池貝喜四郎と池貝庄太郎の前半生(明治維新で没落するが、鉄工所で修行をして池貝を創業して日本初の旋盤を実用化する)

池貝庄太郎は1869年、千葉県平郡勝山村で生まれました。池貝家はもと安房加知山藩主酒井家の家臣でしたが、政府によって廃藩置県の政策が実施されるとその立場を失いました。廃藩後、池貝家は生活難に陥り、庄太郎は13歳という若さで働きに出なくてはなりませんでした。横浜の西村鉄工所で徒弟として仕事を行い、1886年には田中製作所の旋盤工として技術を高めていきました。1889年、庄太郎は弟たちとともに池貝工場を創設して独立しました。

1877年、庄太郎の弟である池貝喜四郎が生まれました。彼も小学校を卒業すると、兄が経営する池貝工場で働くようになります。機械工として働き、兄弟揃って機械技術を身につけていったのです。池貝の経営は好調で、製造業の会社の中でも存在感を高めていきました。庄太郎がリーダーとなって喜四郎をはじめとした弟たちを指導し、日本第一号となる旋盤を開発しました。

1906年、庄太郎は池貝工場を合資会社化し、池貝鐵工所に改組しました。同年、庄太郎は東京高等工業学校の教授となり、学生に技術を教える立場となりました。1907年には、鉄道車両の製造にも乗り出しました。

池貝喜四郎と池貝庄太郎の後半生(日本初のディーゼルエンジンを実用化し、限界ゲージ方式を採用した最初期のNC加工工作機械を生み出す)

1913年、池貝鐵工所は株式会社化を果たします。国内外から大きな注目を浴びていたため、日本を飛び越えイギリスやロシアなどと旋盤を輸出する取引を行いました。1920年には日本初となるディーゼルエンジンを開発し、エネルギー産業にも大きな爪痕を残しました。この時期、池貝鐵工所の活躍は目覚ましいものがあり、船舶用ディーゼルのほか印刷輪転機や各種エンジンなどを製造・量産していきました。

第一次世界大戦が始まると、ロシアからおよそ600台の発動機を製造してほしいとの注文が入りました。しかし納期が半年とかなり厳しいものでした。喜四郎はこの時、治具や取り付け具を使って工場の設備をフル活用し、発動機を製造する専門機を数台作りました。これによって注文の数を確保することができ、ロシアとの関係は無事に保たれました。喜四郎はこの経験をもとに今後国内の製造業において大量生産が起こることを見通し、1916年から限界ゲージ方式を採用した最初期のNC加工工作機械製造に取り組みました。

庄太郎は数々の工作機械、産業機械、エンジンを開発して、多数の特許を取得しました。彼の功績は大きく讃えられ、1928年には彼に緑綬褒章が贈られました。1933年、喜四郎が腸チフスによって亡くなると、その翌年には後を追うように庄太郎も脳溢血と肺炎で亡くなりました。

1905年に生まれた庄太郎の息子は二代目として「池貝庄太郎」を襲名し、工場の経営を引き継ぎました。それからも池貝は成長をやめず、現在でもトップを走る製造メーカーとして人々に愛されています。

今回は、株式会社池貝の設立者である池貝庄太郎と池貝喜四郎の生涯を振り返りました。明治から大正、そして昭和という激動の時代を生き抜いた彼ら兄弟は、自分たちの会社を立派に成長させていきました。日本が戦後、世界有数のものづくり大国となれたのは彼らのような技術者たちの尽力があったからにほかなりません。製造業は国の産業を支える重要な役割を担っています。今後の製造業の成長にも期待していきたいですね。

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