ブログ

【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくり®ヒストリー 電気機関車を発明した カンドー・カールマーン(ハンガリー国鉄の電動化に活躍した鉄道一筋の真面目なエンジニア)

じっくりヒストリー IP HACK

2025.08.15

AKI

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。ハンガリーでは、1930年から国鉄の電化計画が始まりました。財政難に苦しむハンガリーはイギリスからの支援を受けて計画を進め、1932年には試験走行の成功に漕ぎ着けました。完成した電気機関車はV40形(カンドー式機関車)と呼ばれ、1967年まで使用されました。V40形を発明したのは、ハンガリーの発明家カンドー・カールマーンです。今回はそんなカンドー・カールマーンの生涯を振り返っていきましょう。

カンドー・カールマーンの前半生(機械工学を学んでガンツ社で鉄道設備の三相交流システムを開発する)

カンドー・カールマーンは、1869年ハンガリーのブダペストで生まれました。彼が生まれる少し前、革命戦争での敗北によってオーストリア=ハンガリー帝国が成立。1968年に主要幹線の運営を引き継ぐため、議会で国鉄の建設計画が決定されました。数年にわたって支線の建設は民間企業に依頼され、小規模の支線と鉄道会社が設立されていきました。国をあげた鉄道建設計画のさなかに誕生したカールマーンは、その影響を色濃く受けて自身も鉄道の製造に関わっていくことになります。

青年期のカールマーンはファソリギムナジウムで中等教育を受け、1888年からの4年間はブダペスト工科経済大学で機械工学を習得。修了後はオーストリア=ハンガリー帝国海軍で志願兵として過ごしました。1年間の従軍を終えると、パリに赴きフィヴェ=リールで働き、技術者たちとの交流を深めました。

1894年、カールマーンは機械・電気製品・橋梁製造業界の大手ガンツ社からのオファーを受け取ります。フィヴェ=リールで知り合ったアンドレアス・メフヴァルトという人物はガンツ社のマネージャーであり、彼の紹介でガンツ社に入社できることになったのです。ガンツ社では、ジペルノウスキー・カーロイやブラーティ・オットー、デーリ・ミクシャなどの技術者たちと知り合うことになります。

その後、カールマーンは建設部隊のリーダーに選出され、鉄道設備の三相交流(起電力(電圧)の位相を120度ずつずらした3組の交流)の適用を行う仕事に携わりました。業務の一環で、会社の敷地内に800mの試験線を建設して、実験を行う環境を作りました。最初に成果を出したのは、フランスのエヴィアン=レ=バンでホテルへの交通を整備するために建設した三相交流駆動の路面電車でした。その後、1897年にアメリカへの見学旅行に行き、鉄道の電化を実現する仕事に取り掛かりました。同年、ガンツ社はイタリアの鉄道会社S.F.メリディオナリからコモ湖畔の路線を電化する仕事を請け負います。業界の中でも技術や経済力で群を抜いていたガンツ社だったからこそ成し得た仕事であり、同業他社には手を出せる仕事ではありませんでした。カールマーンはこの仕事のためにまったく新しい別の三相交流システムを開発しました。この区間は1902年に開業し、同年ヴェラースドルフの弾薬工場で電化された引き込み線も開業しました。この方式はその後北イタリアに広がり、1976年まで使用されました。

カンドー・カールマーンの後半生(第一次世界大戦でガンツ社全体のゼネラルマネージャーに就任して活躍する)

20世紀初頭ごろ、ハンガリー国鉄はヨーロッパの中で最大規模のものとなりました。しかし、収益性に関しては他国に劣ったままであり、赤字経営が続いていました。戦争での敗北が経済に与えた打撃は大きく、財政面は常に苦しい状態にあったのです。

1907年、カールマーンはイタリアのヴァード・リーグレに移り、ここではイタリア国鉄E550型貨物機関車を開発しました。その後はしばらくヴァード・リーグレに住んでいましたが、1914年に第一次世界大戦が始まると子どもたちを従軍させるためにハンガリーへ送り出し、その後自身もスイス経由でハンガリーに戻りました。カールマーンは鉄道のスペシャリストとして軍に召集され、国防省で鉄道への石炭供給に関するアドバイザーを勤めました。1917年、ガンツ社は軍に対してカールマーンを会社に戻してほしいとの働きかけを起こし、カールマーンの召集は解除されます。カールマーンはガンツ社全体のゼネラルマネージャーに就任しますが、機関車設計者の仕事も継続して行い、フランスやイタリアの国鉄機関車の設計も行いました。

第一次世界大戦の終結後、ハンガリーは連合国とトリアノン条約を締結し、ハンガリーは72%もの領土を失いました。これによって鉄道網の規模も減少せざるを得なくなり、わずかに残された路線と貨車で運営を行っていくしかありませんでした。国鉄の回復のため、残された複線区間を強化することと、幹線網の複線化に焦点が置かれました。

1922年、カールマーンはガンツ社の建設工事のやり方に強い不満を抱えており、会社を離れる決断をしました。海をわたってアメリカに行き、ウェスティングハウス・エレクトリックからアドバイザーとして迎え入れられました。この翌年、ハンガリー国鉄ではブダペスト西駅から15 kmの区間が試験的に新しい方式で電化されました。カンドーが残した試験機関車が改造され、1928年の試験走行では成功を収めます。この機関車はのちにV40形と呼ばれ、1967年まで使用されました。実用化されたされたのは1932年ですが、カンドーはこの前年に心筋梗塞によって死去。自身が開発した機関車の日の出を見ることなく、この世を去りました。

今回は、ハンガリー国鉄の機関車V40形を発明したカンドー・カールマーンの生涯を振り返りました。当時のハンガリーは革命や戦争などによって激しい時代の流れの中にあり、カールマーンもその潮流に翻弄された1人でした。そんな時代の中にあっても、後世まで残る発明を行った功績は素晴らしいものです。V40形は架線電圧が改修されるまで使用され続け、多くの人々を運び続けました。

アーカイブ