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【SKIPの知財教室(IP Hack ®)】じっくり®ヒストリー 電子楽器テルミンの発明者 レフ・テルミン(ソ連のスパイでもあり、マイクロ波を活用した盗聴器の開発も行ったなんだか怪しい発明家)

じっくりヒストリー IP HACK

2025.06.09

AKI

私たちの身の回りには非常に多くの画期的なモノや手法であふれています。これらはすべて先人たちのアイデアによって実用化された数多くの発明のおかげです。テルミンは、1920年にアメリカで開発された電子楽器です。世界初の電子楽器とされているテルハーモニウムはテルミンよりも少し早く完成したものの、総重量が200tを超えるほど巨大なものだったため、一般には浸透しませんでした。テルミンの登場は世界各地の音楽家に刺激を与え、第二次世界大戦が始まるまで一定の人気を保ち続けました。テルミンを発明したのが、アメリカで活動したソ連の物理学者レフ・テルミンです。彼はソ連のスパイでもあり、マイクロ波を活用した盗聴器の開発も行いました。今回はそんなレフ・テルミンの生涯を振り返っていきましょう。

レフ・テルミンの前半生(赤軍の将校として活躍してペトログラード工業大学の研究者となり電子楽器テルミンを発明し、アメリカで電子楽器の音楽活動をする)

レフ・テルミンは1896年、ソ連で法律家の父親と音楽家の母親の間に生まれました。母親はテルミンに音楽的な教育を施し、高校在学中にはペトログラード音楽院に通ってチェロを学びました。1914年にペトログラード大学に入学、物理学と天文学を専攻したものの、第一次世界大戦の影響により彼も軍事を学ぶ必要に迫られ、高等軍事技術専門学校に送られました。テルミンはそこで軍事技士の資格を得て、少尉となりました。1917年のロシア革命では赤軍に参加して、ソ連に貢献しました。

1920年、ロシア内戦は赤軍の勝利で収束し、ペトログラード工業大学には新たに物理工科大学が設立されました。テルミンはそこで主任研究者の役職に就き、音に関係する研究を行いました。ある時テルミンは、電子的な音に関する現象を発見しました。同年、彼はその現象をもとに電子楽器を発明し、自身の名でもある「テルミン」と名付けました。

1921年、テルミンは同僚の妹で医学生であった、エカテリーナと結婚します。ここから、テルミンは科学者として大きな躍進を遂げていきます。ここから、1922年、全国の電化を目指していたウラジーミル・レーニンの招待を受け、テルミンは彼の前で演奏を披露しました。1926年には当時最高水準の機械・光学式テレビジョンの開発に成功するなど、テルミンは科学技術史に重要な功績を残しました。その後、 ヨーロッパでテルミンヴォックスのデモンストレーションのために演奏旅行を行なった後に渡米し、1928年にニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団と共演しました。1929年には米国で特許を取得し、製造・販売権をRCAに譲渡しました。

1930年、テルミンはニューヨークに研究所を設立して、楽器としてのテルミンの更なる発展と、その他の電子楽器などの発明に乗り出しました。そこで、「リズミコン」という新しい楽器を発明しました。同年、テルミン奏者をカーネギーホールに集め、演奏会を開きました。それから2年後、テルミン自ら電子楽器で編隊されたオーケストラを指揮しました。

テルミンは楽器制作活動をしていく中で、当時世界に名だたる知識人や音楽家たちとの交友関係を広げていきました。テルミンと同様にロシアから移民してきたクララ・ロックモアとは同郷ということもあり、2人は非常に親密になっていきました。やがてテルミンは舞踊音楽でテルミンを使用することに興味を抱きました。テルミンはダンスによる全身の動きを音へと変換する電子楽器テルプシトンを発明し、舞踊音楽への挑戦としました。この発明をきっかけに、アメリカ・ネグロ・バレエ団のプリマであるラヴィニア・ウィリアムズと恋仲になります。テルミンはエカテリーナラと離婚し、ラヴィリアとの再婚を決めました。しかしこの結婚でテルミンは周囲からのひんしゅくを買い、夫婦は村八分の状態で過ごすことになってしまいます。

レフ・テルミンの後半生(KGBに拉致されてシベリアで強制動労をさせられた後に、秘密研究所でのマイクロ波を活用した盗聴器の開発をさせられる)

1938年、テルミンはKGBのスパイによって拉致され、祖国ソ連へと送られました。本人も技術をソ連のために使いたいと考えていたため、拉致というよりも自らの意思で帰国を決めたことになります。妻のラヴィニアはアメリカに残り、彼の帰りを待ちました。ソ連に着いてしばらくはレニングラード内では自由に行動できたものの、テルミンには「反革命組織への参加」という嫌疑がかけられ、逮捕されることになります。逮捕後、ブトイルカ収容所に投獄され、シベリアのコルイーマという金山で強制労働をさせられることになります。

この生活は数ヶ月で終わり、テルミンは特殊収容所で爆撃機や盗聴装置などの開発をするように命じられました。西側ではテルミンは処刑されたとの情報が広がり、世間的には彼は死んだものと思われていました。テルミンの刑期は1947年に終了しますが、KGBは彼を解放せず、秘密研究所での任務を継続させました。同年、テルミンは当時26歳のマリアと三度目の結婚をし、彼女との間に双子の娘を授かりました。

テルミンの名誉は、スターリンが死去するまで回復することはありませんでした。その後、彼は自動ドアに搭載する検知器を発明し、さらにマイクロ波を活用した盗聴器の開発に取り組みました。また同時に、レーニンを蘇生させようと実験を繰り返しました。1964年にはソ連の秘密研究所を辞め、モスクワ音楽院の音楽音響研究所で研究員として働きました。

1967年、テルミンはアメリカのジャーナリストに遭遇し、彼の生存はニューヨーク・タイムズに報道されました。このことでモスクワ音楽院はテルミンを解雇しますが、教え子からの援助を受け、テルミンはモスクワ大学物理学部の音響学研究室で実験機器の製作をする仕事に就くことができました。

1988年から始まったペレストロイカにより、テルミンはソ連から出ることができるようになりました。数十年ぶりに得られた自由を活用して、彼は1989年にフランスのブルージュで開催されたコンサートに参加しました。1991年には再びアメリカに行き、かつてテルミンの演奏を通じて親睦を深めた仲間たちとの再会を果たしました。元妻のラヴィニアにも会いに行きますが、彼女はすでに亡くなっていました。アメリカでの滞在を終えるとロシアに戻り、ソ連の崩壊を見届けてから1993年にこの世を去りました。彼の生涯はドキュメンタリー映画にも取り上げられ、彼は世界的な知名度を獲得しました。

今回は、電子楽器「テルミン」の発明者レフ・テルミンの生涯を振り返りました。第二次世界大戦から冷戦期のソ連とアメリカという2つの大国で活動し、栄光と転落をみた彼の人生はすさまじいものだったに違いありません。音楽史、そして科学史に彼が残した功績は、非常に大きなものです。

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